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「東郷平八郎がイギリスのニューカッスルでサッカー観戦を楽しんだ」説を検証してみた


1.Wikipediaに記された驚きの一文

 小学6年生ごろに初めて読んでから、司馬遼太郎『坂の上の雲』を何年かに一度は必ず読んでいる。30歳の今、ちょうど4回目の読書をしているところだ。愛媛県松山市出身の秋山好古・真之兄弟と正岡子規の3人を主人公に、明治維新を経た日本が日露戦争での勝利へ駆け上がるまでを描いた長編小説である。

 日露戦争当時、日本海軍の連合艦隊司令長官が東郷平八郎だ。いわば日本海軍の戦闘部隊のトップである。彼が率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破って世界に衝撃を与えたのが日本海海戦だ。

 そんな東郷のWikipediaページで興味深い記述を見つけた。

日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』東郷平八郎より

 日露戦争終了直後なので、おそらく東郷がニューカッスルでサッカー観戦したのは1905~06年頃だろう。ニューカッスル・ユナイテッドは現在もイングランドのプレミアリーグ(1部リーグ)で戦う1893年創設の伝統あるサッカークラブだ。

 サッカーと近代史が好きな僕は高揚感をおさえることができなかった。明治時代に本場イングランドのサッカーを楽しんだ日本人がいたなんて。しかもただの日本人じゃない。あの東郷平八郎である。

 しかしこの記述には気になる点がある。出典がどこにも明記されていないのだ。これではエピソードをうのみにするわけにはいかない。そこで「東郷平八郎がイギリスのニューカッスルでサッカー観戦を楽しんだ」説を調べてみることにした。

2.東郷はニューカッスルにおらず

 僕がまず腑に落ちなかったのは「日露戦争終了直後に東郷がイギリスに行った」という話である。

 彼は若き日にイギリスに留学して国際法など海に必要な技能を習得した。留学先はポーツマスである。この都市のサッカークラブのポーツマスFCは、かつて川口能活が在籍していたがここでは関係ない。

 1911年にも彼はイギリスを訪れている。イギリス国王のジョージ5世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみやよりひとしんのう)に従って自らも出席するためだ。随行である。

 結論をいうと東郷がイギリスの地に足を踏み入れたのはポーツマスへの留学と、戴冠式への随行の2回だけだ。日露戦争終了直後に彼はイギリスを訪れてはいない。Wikipediaの記述は間違いだ。

 ではなぜ誤った記述があらわれたのか。可能性として考えられるのは大きく2つである。1つは「まるっきりウソ」の場合だ。そもそも日露戦争終了直後、東郷はおろか日本海軍の関係者は誰もニューカッスルに行かなかった可能性である。もう1つは「誰か別人を東郷を取り違えた」場合だ。将校や乗組員とともにニューカッスルを訪れたのは東郷とは別の海軍高官という可能性である。

3.なぜ「東郷」がサッカー観戦を楽しんだことになっているのか?

 日露戦争終了直後にニューカッスルを訪れた日本海軍の関係者は果たしていたのだろうか。この答えを知る鍵が見つかった。戦艦「鹿島」である。


戦艦「鹿島」の姿

 鹿島は日本海軍の依頼でイギリスのアームストロング社によって建造された。この会社は、日本海軍の依頼で東郷が日清戦争時に艦長をつとめた「浪速」などの軍艦を何艇もつくっている。

 余談だがアームストロング社の創業者であるウィリアム・アームストロングが開発した大砲が「アームストロング砲」だ。この砲は日本の戊辰戦争の上野戦争で佐賀藩が使用したとされている。そのエピソードを元に書かれた作品が司馬遼太郎『アームストロング砲』である。

 さて、鹿島を日本海軍が使用するにはイギリスから日本まで持ち帰られなけばいけない。受け取った軍艦に乗って帰るための乗船員を日本から派遣する必要があるのだ。

 1906年、伊地知季珍(いじちすえたか)を回航委員長(受け取り後は艦長)とする使節団が鹿島の元に派遣される。その行き先こそ、アームストロング社のあるニューカッスルなのだ。日露戦争終了直後、間違いなく日本海軍の人々はニューカッスルを訪れていた。

 ニューカッスルに到着した使節団は、ロシアに勝った極東の小さな同盟国を称える地元の人々の熱烈な歓迎を受けた。

 そして、いよいよ明治の日本人たちはスタジアムに足を踏み入れる。

(中略)恐らく最も特筆すべきな のは、総勢150名に及ぶ海軍将校と「鹿島」の乗員たちが、ニューカッスル のセント・ジェームズ・パークで催されたニューカッスル対ストーク・オン・ トレントのフットボールの試合によってもてなされたことであろう。この極東の「ヒーロー」たちがスタジアムに到着すると、その入り口には「歓迎」 と日本語で書かれていた(コンテヘルム、1989: 56-57; Keys & Smith, 1996: 33)。

山本睦『20世紀の日英関係における転換点とその工業的「ランドマーク」
: 戦艦「鹿島」とトライアンフ・アクレイムを中心に』より

 彼らが観戦したのはフットボールリーグ1部(当時の1部リーグ)の試合だ。対戦相手のストーク・オン・ トレントは、今も活動しているストークシティFCである。会場のセント・ジェームズ・パークは、今もなおニューカッスル・ユナイテッドのホームスタジアムとして使用されている。ちなみに試合は5-0でニューカッスルが勝利した。

 1906年4月28日の『ニューカッスル・ウィークリー・クロニクル』は、スタジアムでの歓迎の様子を次のように記している。

クラブの理事たちとお茶を飲んだ後、一行はスタンド に移り、観客から盛大な拍手で迎えられた。日本の国歌が演奏されると、士官たちは直立不動の姿勢をとり、再び満場の喝采をあびた。

山本睦『20世紀の日英関係における転換点とその工業的「ランドマーク」
: 戦艦「鹿島」とトライアンフ・アクレイムを中心に』より

 日本人たちがサッカーの本場イングランドのスタジアムで、観客から盛大な歓迎を受け、国家を演奏され、サッカーを観戦する。こんな景色が明治時代に存在したのだ。想像するだけでどきどきしてくる。

 東郷はニューカッスルを訪れてサッカー観戦をしていない。しかし、この地を訪れた日本海軍の使節団に関して思わぬ記述が見つかった。

 進水式に引き続いて翌年、完成した艦船を日本へと持ち帰る「回航事業」のために日本海軍の使節団が派遣された。彼等は1906年4月にタイン河畔に 到着し「東郷の英雄」として大いなる歓迎を受けた。

山本睦『20世紀の日英関係における転換点とその工業的「ランドマーク」
: 戦艦「鹿島」とトライアンフ・アクレイムを中心に』より

 「東郷の英雄」。使節団は東郷がいないにも関わらず「東郷」の冠をつけた英雄として称されていたのだ。それだけロシアのバルチック艦隊を破った司令官である東郷のインパクトは強かったのだろう。もしかするとWikipediaを書いた人も文献で「Togo」という単語を拾ったがために「東郷平八郎がニューカッスルでサッカー観戦した!」と早合点したのかもしれない。

4.明治の日本人はいかにサッカー観戦を楽しんだのか

 こうして日本海軍のみなさんはセント・ジェームズ・パークでサッカー観戦を楽しんだらしい。ここでひとつ不安がある。

 明治の日本人に果たしてサッカーの面白さが分かるのだろうか。もちろんサッカー自体は日本に伝来済みだ。しかしサッカーを観戦する文化は当然ない。現代でさえ日本では「サッカーの見方が分からない」と口々に言われることさえある。せっかく歓迎されたのに球蹴りの何が楽しいか分からずぽかーんとしてはいなかっただろうか。

 だが僕の不安は杞憂だった。先ほど取り上げた1906年4月28日の『ニューカッスル・ウィークリー・クロニクル』の記述には続きがある。

…試合はこの男たちの非常に熱気溢れる注目を集め、よいプレーには惜しみない拍手が送ら れた。

山本睦『20世紀の日英関係における転換点とその工業的「ランドマーク」
: 戦艦「鹿島」とトライアンフ・アクレイムを中心に』より

 「この男たち」というのは歓迎された日本海軍の使節団一行である。試合を観ている彼らの目は熱気を帯び、すばらしいプレーには拍手を送っていたのだ。

 もちろんこの明治の日本人たちがサッカーの楽しみ方を熟知していたわけではないだろう。周りの観客の雰囲気を見ながら拍手を送っていたかもしれない。

 あるいは日本海軍には、サッカーなるものが何たるか多少知られていたのかもしれない。海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)でイギリスから顧問として派遣されたダグラス少佐たちが学生たちを指導したのが、日本人がサッカーをプレーしたはじまりだったからだ。

 彼らがサッカーをよく知っていたか否か、詳しいことは分からない。でも一つだけ言えることがある。明治時代、日本人はニューカッスルでサッカーを観戦し、熱狂し、大いに楽しんだ。何がなんだがよく分からなかったかもしれない。それでも僕らの先人たちは選手が走り、ぶつかり、蹴る姿に胸を熱くしていたのである。この風景に思いをはせるとき、過去と現在が「サッカーを楽しむ」という一点だけでびしっと繋がったように感じるのは自分だけだろうか。

1906年、セント・ジェームズ・パークで歓迎を受けた日本海軍の使節団。

5.参考資料

◎Admiral Togo Pays Thanks To Newcastle Shipyards(Geordie Japan)
 この記事を見つけなければニューカッスルに訪れた「東郷」の正体はわからなかった。

◎山本睦『20世紀の日英関係における転換点とその工業的「ランドマーク」
: 戦艦「鹿島」とトライアンフ・アクレイムを中心に』より
(言語文化 巻 10, 号 2, p. 227-249, 発行日 2007-12-31)
 当時、同志社大学の准教授だった言語学者による論文。使節団のサッカー観戦の様子まで判明したのはこの論文のおかげだ。(https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/20099/files/006010020002.pdf

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