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たった半年で阪神タイガースの運命を変えた「賭ケグルイ」―村瀬秀信『虎の血』


1.半年で消えた謎の老人監督・岸一郎

爆発的な面白さだった。実在の人物であり、実際にあった話なのに、現実なのか虚構なのか分からない気分におちいってしまう。

なんといっても主人公である岸一郎が、まったくもって謎の人物だからだ。1954年冬、突如として大阪タイガース(現・阪神タイガース)の監督に就任し、わずか33試合でクビになった老人である。かつて大学や満州の野球界で名を馳せたが、それも30数年前の話。当時の野球界で知る者はほとんどおらず、選手たちにもまったく相手にされないまま煙のように消え去った。
その後の消息は不明で、この書評を書いている時点でwikipediaを見ると「没年月日不明」となっている。

本書は、彼の人生を解き明かしたばかりではなく、この老人の存在が「阪神タイガースのその後」に深く関わっていることにまでたどり着いた。もちろん没年月日も判明している。読んだ誰かによっていずれwikipediaが更新されることは間違いない。

1954年シーズン終了後、身銭を切ってまでチームと選手を支えた硬骨漢・松木謙治郎監督が退任した。後任最有力は「ミスタータイガース」こと藤村富美男である。戦後日本が生んだスターの一人だ。今までタイガースには何人か「ミスター」と冠がつく選手が出てきたが、藤村の輝きにはみな色あせてしまう。

そもそも松木もいずれ藤村に引き継ぐつもりで監督を続けていた。松木から藤村へ綺麗な禅譲がなされると誰もが思っていた。

ところが野田誠三オーナーは独自の人脈で岸を新監督に任命する。人脈といっても、岸からの熱い手紙にほだされただの、鉄道系の官僚からの口利きだの、ウソかマコトか分からない話が流れる始末。真相はわからない。

就任早々、岸は「実力主義」を打ち出しベテランも特別扱いしないことを明言した。若手の積極起用によって投手力を強化する。目指すは優勝だ。

では特別扱いされないベテランたちはどうなるのだろうか。そのベテランの中には球団はもちろんファンの中でも神のごとく君臨する藤村がいるのだ。プロの世界にいたことない老人が自分たちの監督になるだけでなく、なんと主力かつ功労者たる自分達を外そうとしている。チームははじめから不穏な空気に包まれていた。

詳しいエピソードは本書にゆずるが、結論から言うと岸監督は選手のほぼ誰にも相手にされず指揮をとっていた。いや、それはもはや指揮していると言えるのか分からない。藤村をはじめとした主力選手は「おっさん」、「年寄り」などと岸に聞こえるかどうかの声量であからさまに馬鹿にした態度を示していた。

1955年5月21日、岸一郎監督休養。事実上の解任である。わずか33試合の指揮。就任しておよそ半年の監督生活だった。

彼は自分が選手たちにないがしろにされていることに気がついていた。それどころか自分が異分子で招かざる客だと当初から自覚していた。その苦しみを誰にも言えず抱えたまま孤独に指揮をとっていたのだ。

周囲にボロボロにされ散っていた哀れな老人監督。彼の後任は藤村が選手兼任で代理監督に就任した。なぜ最初からこうしなかった。

2.監督を監督扱いしなかった者に未来はない

藤村代理監督の手腕はいかほどだったか。彼は選手としてつちかった勝負勘を采配で発揮する。ここぞというときに自分を含めた選手起用が当たりまくりチームを立ち直らせた。ミスタータイガースは伊達じゃない。

翌1956年、藤村は選手兼任監督に正式就任する。謎の1年はあったが、結局松木が思い描いた通りに藤村が後を継いでくれた。これはタイガースは安心だ。めでたしめでたし。

……とでも思っただろうか?

この年の11月、マネージャーと選手13人が藤村監督の退陣をオーナーに要求する。藤村排斥事件のはじまりである。監督になっても変わらない藤村のスター然とした振る舞いや、給与を上げてくれない球団への不満などの矛先が藤村に向いたのだ。

しかしだ。藤村がスターであることは疑いようもない。急に振る舞いが変わったわけでもなく、見方によっては普段からムカつくおっさんだ。給与も急に上がらなくなったわけではない。これも昔からだ。

もちろん我慢の限界はある。問題は「なぜこのタイミングか」なのだ。

選手たちは見ていた。藤村が岸一郎に対してどんな振る舞いをしていたかを。「おっさん」や「オイボレ」などと面と向かって岸をののしった。まさに監督を人間と思わない所業だ。

岸一郎に対する藤村富美男の振る舞いによって、タイガースにおける監督の尊厳は「死んだ」のである。

そして今、監督である藤村も選手から見れば「尊厳のない」立場の人間だ。たとえミスタータイガースであっても「監督」なのだから。

藤村排斥事件は、阪神本社から派遣された球団代表やライバルである巨人の仲裁もあって一旦は和解した。

翌1957年、藤村は現役を引退して監督に専任した。ところがシーズン終了後に監督交代を告げられ、現役復帰を要請されるのだ。彼はコーチ兼任でもなんでもないただの一兵卒という扱いで選手に戻ることになる。しかしミスタータイガースでも1年間のブランクは大きすぎた。1958年をもって藤村富美男は現役を引退する。そればかりか二度とタイガースの仕事をすることはなかったのだ。

以降、タイガースは「お家騒動」が話題になりがちの球団になっていく。その根っこにあるのは、現場のトップに尊厳がない「選手至上主義」だ。その源流は岸一郎にあったとするのは考えすぎだろうか。

3.賭ケグルイのべらいちとファンを愛したミスタータイガース

岸一郎就任から藤村富美男引退までの流れは、哀れな岸一郎と自業自得の藤村富美男の物語にも思えてくるだろう。

でも本番はここからだ。そもそも岸一郎とは何者であったか。著者は彼の故郷である敦賀に向かい、親族たちに直撃していく。

岸はかつて大学や満州で名を馳せた選手と書いたが、それは嘘ではない。いや、嘘どころではなかった。早稲田大のエース左腕として大活躍したイケメン選手。後に彼を描いた絵ハガキがいくつも発掘されたくらいのスター。これが彼の正体だ。

大学卒業後は南満洲鉄道に入社する。その野球部である満洲倶楽部でもエースとして活躍した岸は、満州野球を盛り上げた第一人者であった。

間違いなく現役時代、彼は英雄だったのだ。

そんな彼が引退後30年も野球界と関わることなく過ごし、タイガースの監督として満を辞して再び野球界に乗り込んだ。結果は無惨だったが。

このように書くとかっこよく見えるかもしれないが、親族の証言をまとめていくと少しずつきな臭くなっていく。

岸はとにかく勝負事が好きだった。野球を引退してから彼がのめり込んだのはギャンブル、ついでに女遊びである。岸家に残されていた宝物たちはみるみるうちにギャンブル資金に消えていった。

岸家には「コマンの血」と呼ばれる天才児がときどき生まれるという伝説があるらしい。びっくりするような美形で、勘が鋭く、運動神経抜群、頭脳明晰。才能の塊である。岸一郎はまさに「コマンの血」の男だった。

そして岸家にはもう一つ「べらいち」という言葉が伝わっている。ただのおしゃべりじゃない。調子に乗ってべらべら話を大げさにしてしまう。べらべらしゃべる一郎だから「べらいち」。そう、岸一郎のことだ。

天才児として生まれ、あらゆるところで才能を発揮し、勝負事が大好きなおしゃべり。これらの能力が岸一郎を「阪神タイガースの監督として勝負する」という一世一代の賭けに駆り立てたのかもしれない。まさに口八丁な「賭ケグルイ」の大勝負だ。

最後に、藤村富美男と阪神タイガースの話をしたい。藤村がなぜ「ミスタータイガース」であり続けるのか。阪神タイガースとは何なのか。その答えはタイガースが優勝した1985年、藤村が当時の選手である川藤幸三にかけた言葉に詰まっている。

「(中略)ええか。タイガースの監督は吉田や。せやけどタイガースは吉田のもんではない。タイガースがあるから吉田がおるんや。ワシらは監督やコーチに認められたくてやってきたわけやない。ファンに認められるために必死になれたんや。それが諸先輩方が作ってきたタイガースであり、虎の血なんや。これを後輩たちに繋いでいけ」
(※太字はつじーがつけました)

村瀬秀信『虎の血』p287

ファンのために戦う。これを全身で体現したのが藤村富美男という男だった。ファンが喜ぶなら何でもする。勝ちに行くのは当然のことだ。加えて、見てる人間をいかに楽しませるかも重要だ。目立ちたがりだと周りの選手から反感を買うこともあった。でもそんな雑音はミスタータイガースに関係ない。なぜならファンが喜んでこその「虎の男」だからだ。

しかし裏を返せば「ファンのために」を錦の御旗として、上を突きあげたり排斥することも可能になるわけだ。自覚があったは分からないが藤村は「ファンのために」岸一郎をないがしろにし、自ら指揮をとって結果を出そうとした。この歴史はいつも繰り返される可能性がある。

これは阪神タイガースだけの話ではない。野球だけの話でもない。サッカーだろうが、なんだろうとあらゆるスポーツチームに与える教訓である。

監督をないがしろにして上に立った者に未来はない。

「ファンのために」は大きな武器になる。敵を倒せ力になる。でも気に入らない味方も倒せる。そして自分すら倒されるかもしれないのだ。

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