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カッコイイ大人は理想も現実も見捨てない―黒岩比佐子『パンとペン』


1.「売文ビジネス」はじめました

 カッコイイ。読み終えたとき、まず頭に浮かんだ言葉だ。カリスマ性があるわけでもない。強い言葉で誰かを扇動するわけでもない。スマートな生き方をしたわけでもない。表紙の写真にうつるのはメガネをかけた子持ちのおじさんだ。それでも本書の主役である堺利彦は間違いなくカッコイイ。

 彼は明治から昭和初期を生きた社会主義者だ。政府から社会主義が警戒のまなざしで見られ、取り締まりや監視の対象だった時代に堺は組織やメディアを立ち上げ活動し何度も逮捕される。晩年には日本共産党の設立にも関わった。

 62歳の人生で彼は多くの大切な人たちを失う。親友の幸徳秋水は1910年の大逆事件で処刑され、面倒を見ていた後輩の大杉栄は1923年の関東大震災のどさくさで憲兵隊に虐殺される。大逆事件も関東大震災も、既に別の理由で逮捕され刑務所にいたことから、堺は幸徳や大杉のような運命をたどらずに済んだ。

 大逆事件によって政府はもちろん日本全体が社会主義を「天皇に盾つく危険な思想」とみなすようになった。ここから十数年が日本の社会主義の「冬の時代」と呼ばれる理由だ。そんな中、堺がはじめたのが「売文社」という変わった名前の会社だった。本書はこの「売文社」にスポットを当て、堺と周囲の人々の生き様を追ったノンフィクションである。

 堺が作った売文社とは、文章に関する仕事なら何でもやる会社だ。雑誌などメディア記事や書籍の原稿制作、手紙など文章の代筆・添削、各外国語の翻訳、スピーチや談話の書き起こしなど多岐にわたった。中には「生まれた子供の名前をつけてくれ」という依頼にも彼は応えている。

 いったい社会主義はどこに消えたのか。売文社の顧客や協力者を見ると「資本主義を敵視している」とイメージされがちな社会主義者がやっている商売とは思えない。資本主義の世界で富を築いた資本家の名前も並んでいるからだ。

 たとえば作家・星新一の父で星製薬の創業者である星一は売文社に協力している。軍人であり後に政治家となる安田伊左衛門の著書『馬匹改良論』は、売文社がすべて書いていることが本書で明らかになっている。ちなみにこの男、現代でも馴染みのある人が多い人物なのだがご存知だろうか。実は競馬の安田記念の「安田」は彼のことなのだ。

2.嫉妬するほどカッコイイ

 なぜ彼は売文社をはじめたのか。この冬の時代に社会主義の看板をかかげて活動をすることは難しい。それでも来るべきときは必ず来るし、それまで耐え忍ぶしかない。そのときまで仲間を養う手段として考えたのが「文章なんでも屋」だった。当時、社会主義の考え方は洋書を翻訳して身につけたり紹介していた。書きものや翻訳に慣れた自分たちにうってつけの商売だ。

 理想をとるか現実をとるか。今も昔もあらゆる場面で人間に突きつけられる。堺は欲張りだった。理想を温め続けながら現実と向き合い、ときには行動した。雪解けの予感がすると自らメディアを立ち上げ、選挙に出馬した。売文の仕事は続けて軌道に乗せることで多くの仲間の活躍の場や集まる場を作った。

 歴史に残るのはどうしても理想を真っすぐ追った人だ。現実を追った者で語られるのは成功をおさめた人ばかり。理想に殉じた人間は後世から見ても、当時から見てもキラキラ輝いている。悲劇的な死を遂げたらなおさらだ。

 だが、僕らが本当にキラキラした目で眺めるべきは堺のような人物ではないだろうか。理想の火をともさず現実を歩き続ける。そういった彼の姿勢を本書で感じると背筋が伸びるようだ。

 趣味とはいえ定期的に文章を書くようになった僕からすると、彼の書く力など文章に関する能力が率直にうらやましい。様々な文を書けて翻訳もできる。それが売文社という会社のビジネスになる。ここだけ切り取るとなんて素敵な話か。

 彼の文章や人生に欠かせないのはユーモアだ。自分や仲間にとって過酷な時代でもそれを忘れない。刑務所に入っていたとき妻の為子に書いた手紙もクスりとする内容に満ちている。中でも僕が好きなのは売文社が新聞にのせた広告だ。「食パンに万年筆を突き刺した」絵が描かれ、堺が次のような文章をしたためている。

 ペンを以てパンを求むるは僕等の営業である。今度僕の社で拵へる年始の葉書には、食パンに万年筆を突きさした画をかいて、それを商標の代りにする事にして居る。昔し僕の居た英語の学校では、ペンと剣のぶつちがへを帽子の徽章にして居たが、それが今度ペンとパンのぶつちがへに成つたかと思ふと、ちょっとおかしい心地がする。ペンとパンは実に適切なる僕等の生活のシンボルである。  
 世にはペンとパンとの関係を秘密にする者がある。或は之を曖昧にする者がある。或は之を強弁する者がある。そして彼等のペンは、其実パンの為に汚されて居る。  
 僕等はペンを以てパンを求める事を明言する。然し僕等には又、別にパンを求めざるのペンがある。売文社のペンはパンを求むるのペンである。僕等個々人のペンは僕等の思ひを書現はすペンである。つまり僕等は二種のペンを持つて居るのである。それでペンとパンとの関係が極めて明瞭になつて居るのである。

黒岩比佐子『パンとペン』p12

 文章でお金を稼ぐことへの今の風潮、それを踏まえた上での自分たちのスタンス、これを「パンとペン」という表現でユーモラスに書いた名文。それでいて己の信念は伝わってくる。真面目と緩みが絶妙だ。どこでもユーモアを忘れない。でも「面白い」だけで終わらせない。僕が彼を好きな理由だ。

 彼が自分の活動に対する捉え方もたまらなくカッコイイ。

『われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ、幸徳でも僕でも士族出で本物の社会主義ではない、本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で進められるのだよ……だからといってインテリの社会主義道楽が無価値で、真摯でないとはいわんがね、道楽で命を落とす人はいくらでもある……。』

黒岩比佐子『パンとペン』p378

 何度も逮捕され、命の危険も一度や二度じゃない。そこまで身体を張っている己の活動を「道楽」だと突き放す冷静さ。だが注目は最後の一文だ。「道楽で命を落とす人はいくらでもある……。」、ここに堺の信念が込められている。

 命の危険がなくても社会を変える運動じゃなくても、僕らには真摯に取り組んでいるものが何かしらあるはずだ。僕は書評家と名乗って仕事にそうなるわけでもないのに文章を書いている。サッカーファンの中にはレビューとして応援してるクラブの試合や戦術を分析している人がいる。これらも突き放して考えると「道楽」だろう。

 でも道楽だろうとそこに価値が生まれることはあるし、真摯に取り組んでいないわけではない。むしろ道楽だからこそ真剣なのかもしれない。真摯である価値がある。立場も重みも時代も違うが堺のハートは現代の僕らにも勇気を与える。

3.フットボールと古代史と堺利彦

 堺から感じるものに「圧倒的包容力」がある。まず人脈が幅広い。何かひとつ理想の思想を持つ者は、考えの相違があると相容れなかったり仲間割れしてしまうイメージがある。だが堺には無縁だ。考えが違えども相手を受け入れて接する。仲間の後輩たちも彼の文句を陰で言いつつ結局頼る先は堺だし、彼も進んで後輩たちの仕事を見つけたりと世話をした。彼が為子におくった手紙の一文に、堺利彦という人間の本質が詰まっている。

「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」

黒岩比佐子『パンとペン』p327

 彼のもとには人が寄ってくる。だから本書は堺利彦を中心にした群像劇のようだ。あらゆる登場人物が出たり入ったりを繰り返す。その中には社会主義者と関わっているとは想像もつかない人物や、後世と思わぬ関わりを持つ人物もいる。

 堺の告別式には驚くべき人物が参列した。当時の斎藤実内閣の拓務大臣・永井柳太郎だ。著名な社会主義者の告別式に現職大臣が参列したことは、貴族院で問題になった。若き日の彼はかつて堺と幸徳が中心に組織した平民社に出入りしていたことがある。永井は貧困家庭から大臣まで登り詰めた人物だ。告別式への参列で何か言われることは分かっていたはずである。それも覚悟で堺を見送りにきた。このエピソードも堺の人間性を示すひとつだろう。

 平民社に出入りしていた者に白柳秀湖という若者がいた。彼は堺の社会主義に刺激され、文章を書く上でも堺から大きく影響を受けている。まさに堺は恩人だ。しかし大逆事件を機に白柳は社会主義から離れ、小説を書くこともやめてしまう。その後、彼は在野の歴史家として『民族日本歴史』を書き、当時の人々には「町の歴史家」として人気になった。

 白柳は、とあるサッカークラブにも縁がある。彼の息子・景吉は野球をやっており、栃木県日光市の就職先の野球部でも主将をつとめていた。本職は野球ながらスポーツ万能でサッカーもやっていたため、サッカー部の試合にもよく駆り出された。しまいには部の二代目部長になってしまう。このサッカー部こそジェフユナイテッド市原・千葉の前身、古河電工サッカー部なのだ。

 最後に、白柳の歴史本を夢中になって読んでいたある若者の話をしたい。その若者が特にお気に入りだったのは古代史の記述だった。白柳のおかげで古代史に興味をもったと彼は後に書き残している。貧しい育ちのため最終学歴は尋常小学校だった彼は、苦労して働いていたとき賞金目当てに書いた小説が直木賞候補になる。本格的に作家活動を始めることになった彼は、専門家ではないが古代史に関する論考も多く残した。まるで自分が憧れた白柳をなぞるように。彼の名を松本清張。今なお誰もが知る国民的作家である。

【本と出会ったきっかけ】
 高校時代、タイトルの気持ちよさにひかれて単行本で読んだ。文庫版が出ていることを知らず、買いそびれてるうちに絶版に。どうしても欲しかったのでメルカリで購入した。復刊求む。

4.参考資料

◎古河電工サッカー部史
 白柳秀湖とサッカーの関わりはここから発見した。

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