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わたしの世界を旅する-コーカサス発トルコ経由南欧行(2)


まるで読み手を魅了する素敵な物語の最初の一文みたい
公的機関の建物は旧ソ連らしい、いかめしいつくり。ただ、少しだけ無機質さからは解放されているだろうか
海の見える坂の上は、一等地のような雰囲気がある

6月17日:朝は少し南の方へ散歩をした。とても暑かった。坂を上り、眺めのいい丘の上から階段を下った。住宅街の半地下のパン屋で買ったパンは、パイ生地の中にカレー粉みたいなものが入っていた。異国人の視線にも早くも慣れてきたみたいだった。

コンビニにはアゼルバイジャンの他にパキスタンとトルコの国旗が掲げてあり、その辺りから来る人も多いのだろう
バクーは木漏れ日が似合う街。風と強い光、陰影が映える黄色い家壁があるから、揺れる木漏れ日も通りも少し楽し気な表情
旧ソ連諸国の市民はロシアについてどう思っているのだろうか
旧市街はカルカソンヌに少し近い。それなりに観光地化されていた。けれど一本入れば、洗濯物が狭い路地にかかっていたりと生活感もあった。こっそり住人達の話を聞きながら日陰の小道を歩くのも、内容が全く理解できないからそこまで後ろめたくない。もう少し生活感があるとよかったかも
上に果物や野菜を乗せた車が時折旧市街の中を通っていく。そこから降ろしたのだろうか、さくらんぼと黒いベリー系の果物の箱を並べたおじいさんがいて、それぞれ食べさせてくれた。その後にひと箱もくれようとした。あれは買わせようとしたのか、好意だったのか判断がつかなかった
美しい文様だ、しかしこれは本物か?
ガイドは要らないかと迫ってくる若者たちがいる。美術館の前で、テンプレを暗記したようなフレーズを聞き取れない早口でまくしたてていた。もう一人は日本が好きらしく、日本語はひらがなとカタカナは簡単だが、漢字は難しいと言った。丁重に断った
トルコ人観光客たちの写真を撮った。足が切れていたのでもう一枚
蚤の市の様相を呈している
ほんとうにランプって売ってるのか・・

旧市街自体は入場が無料だった。結局有名なモスクや美術館には入らなかった。今思うと、なぜ行かなかったのか分からない。この旅であといくつの世界遺産を観ることになるかなと考えた。

Aliはこの辺りで写真を撮ってくれ、と言った
Aliは街を紹介するのが好きそうだったので、カスピ海も行ったことがないことにした。ここでも風に髪を揺らす彼の写真を撮影する
Aliは、パキスタンの女の子はイギリスの次に可愛いとの持論を展開していた。年を聞くと同い年だった。髭をたくわえた南アジア~中東の男たちの年齢を正しくはかるのは難しい。向こうももっと若いと思っていたはずだった。パキスタンは美しく、安全な国だという。会話はお互いが何となくわかったふりをして、始めた方で終わってしまう感じがあった。こんな風に常に話していれば、英語も上達するのだろうと考えた。みんなクリケットをするらしい。野球をしていたと伝えると、パキスタンの野球チームも強いぞと言った。あとは、アゼルバイジャンの女の子の話もしていた。女の話ばかりだった。男と女が、あるいは同性同士が愛するとか、一方通行とか何でもいいけれど、そこに一つの人生の、というか共通の真理があるのだと感じた。パキスタンもそういったことをっかなりオープンにできるのは、少しうらやましかったりした。昨日の夜宿でずっと電話していたのは国にいるガールフレンドらしかった。バクーの土地は好きだけど、人は好きではないらしい。英語も通じないしと言っていた。なぜか気に入られた。同世代の若者が考えていることをほんの一端だけでも垣間見れた。
油が混じった水
街にも宿にも猫がたくさんいた

 昨日と同じ旧市街の外壁の外で座っていると、話しかけてくる男がいた。あれ、あったことがありますか?と聞いてしまったが、昨日しきりに話しかけてきた、自分の下のベッドのパキスタン人だった。紫と赤の少し光沢のある高級そうなチェックシャツに髪をオールバックに固めていた。彼の名前はAliと言った。パキスタンの医者の息子で本人も外科医をしていると言った。今は旅行中で、これからいとこのいるマレーシアに行き、ゆくゆくは日本でも病院に研修医として受け入れてもらう、そんなことを言っていた。彼と話をしながら、カスピ海とそのほとりのショッピングセンターを歩いた。
 宿に着く前に彼は、昼ご飯をマックで食べたいんだが今お金がない、親にたのめばすぐに振り込んでもらえるので後で返すから5マナトだけ貸してほしいと言った。今日この街を離れることが伝わっていなかったみたいだった。お金を貸して宿に戻ると、主人に、チェックアウトの12時を大幅に過ぎているので今すぐ出ていかないともう一泊分とるぞと言われ、荷造りも途中のまま外に出た。宿の前で荷造りをしていると、Aliが戻ってきて、今日帰るのかと驚いた表情をした。肩を抱いて、FacebookとWhatsAppを交換して別れた。
 以降、折に触れて連絡が来るようになったが、あの時撮った写真はいつくれるんだ、と言った内容がほとんどだった。結局日本にも行かなかったみたいで、パキスタンに戻っていったから、その辺りは本当のことだったのかはよくわからないままだった。一眼レフで撮った写真は帰国してPCに移さないと送れないと何回もメッセージしたのに定期的に催促が来た。iPod Touchで撮った画素の低すぎる写真が運よくあったのでそれを送ると、喜んでくれてFacebookにアップしていた。それ以降連絡は取っていない。

靴磨きをしている人がたまにいた。台は40年もたてば工芸品として美術館に展示されそうなほど年季が入っている。
またクラクションの音が聞えた。人が渡っているのに思い切り曲がってくる車。ナンを詰めた袋を持った、スカーフをかけたおばさん。日陰でチェスに興じているおじさんたち。店先で何かを話しているおじさんと警察官。公園で愛を語らいあうカップル。昼でも暗い半地下の個人商店では、大体店員がスマホを片手に手持ち無沙汰そうにしている。顔を隠した女性、目だけしか見せない女性。街角では見るからにカフカスの血を受け継いでいる老婆が小さな果実を売っていた。
公園に座っていると、中坊くらいの集団がこっちを見てくるけれど、髪型とか、どこの国でも中学生くらいっていうのはどうしてダサいのだろうか。カップルがいて、女の子がこっちを見てたから微笑みかけたら後から追いかけてきて話しかけられた。日本を知っていて、”ありがとうございます”だけ話すことができた。アゼルバイジャンはどうですか、って聞かれた。いい場所ですと答えた。
リュックが重すぎるので、頻度多めで休憩を挟む。ティッシュ売りが来たけれど、何を言っているのか分からない。隣のベンチの人は、お金だけ渡していた。
駅の裏口のこの辺りだけは、すこし治安が悪そうな雰囲気があった。
空腹で倒れそうだったので、トルコ料理やぽいところでテイクアウトして駅裏の広場で食べる。ナンといいうよりはマフィンのような生地にトマト(生だけど他と一緒なら食べれた、ケンタッキーのツイスターみたいな感じか)、香草、ケバブ、レタスが入っていてとても美味しい。この広場にしばらくいたような気がする。
歩くのがきつい。水分と食料を摂取しないと足の裏にずきずき響く。75マナトだけ残った。Canonの文字が書かれている割ときれいな店にも、カメラフードはなかった。
バクーは巨大な都市で、空港の方向に向かうとき、駅のさらに北東側に高層ビルが並んでいるのが見えた。さらに空港に近くなると、なだらかな丘の上に住宅が並んでいて途切れることはあっても向こうまで続いている。山は見えない。土地はまだ余っているみたいだった。

 駅に戻り、軽食をとって、行きに使った同じバスで空港に戻った。バクー。何もしていないけれど、旅の最初にはふさわしい街だった。バスから見る、均質なマンション群に西日が当たる光景はいつかの夢に出てきた感じがあった。

アジア系の人々も意外と多かったが、韓国やタイへ行くようだ。
機内は人種と言語が入交り、香水や体臭が混ざり合い、おまけに航空会社が後ろの席から順番に乗客を案内しないせいで、凄いことになっていた。『静かなドン』に出てくるカフカスのコサックみたいなおじさんを見れて嬉しい。他の誰でもない自分がここに座っているという強烈な孤独感がまた襲ってきた。これが自分が旅に期待していた光景と気持ちだった。離陸後機体が安定するまでに時折激しく揺れる時間帯も関係なく皆が各々おしゃべりを続ける。ひとりの頑固そうなおじいさんがクレームを付け、皆の注目が集まる。非常に騒がしい。しかし、色んな言語を浴びながらまるで難しい資料を読んだときみたいにすんなり眠りにつくことができた。
格安航空のくせに、サンドイッチまで出してくれた。隣の人と同じものをと言うと、違うものが提供された。ウイスキーを飲んでいたおじさんが急にキレ出して女性に暴力を振ろうとしたのを添乗員が止めに来た。飛行機が着陸すると、乗客は拍手をし、指笛まで吹いている人もいた。着陸に成功することがこんなに喜ばしいことだというのは、逆に怖かった。
売店で頼もうとした肉巻きのような食べ物。前の中欧系の家族の注文が終わらない。味見までして慎重になりすぎずトライせいよと、空腹でいらつく。しかし、塩っ気のある食べ物かと思っていたら、甘ったるいお菓子だった。Cinarというらしい。味見すればよかった。


運転手は、チャイナか?と聞き、ジャパンと言うと握手をしてきた。ジョージア語のありがとうと、こんにちはを教えてもらった。数字も聞いたがよく分からなかった。大枚をはたいたからか、上機嫌で帰っていった。車の窓から見えた街はこんなに夜も更けているのに人が出歩いている印象だった。宿泊するファブリカ・ホステルの前では若者たちがどんちゃん騒ぎをしていた。アゼルバイジャンよりもぐっとヨーロッパに近づいた雰囲気があった。
タクシー運転手も皆このホステルの名前は知っていた。

 トビリシの空港に着いたのは夜も遅かった。疲れてもいたのでタクシーで宿まで向かってしまおうと思った。タクシー運転手が次々と声をかけてきた。ATMやインフォメーションまでしつこく着いてきたので、観念して値段を聞くと100リラだという。今引き落とした全額が100リラだったのでその値段水準はおかしかった。立ち去ろうとするとオフィシャルは100だが、90でいいという。 ”Airport Taxi”という服を着ているのに、ぼったくるつもりなのだった。しかし他の公共交通機関もなかったので、60リラで妥結したが、ずいぶんとそれでも高かったので後悔した。諦めてヒュンダイの自動車に乗り込んだ。


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