見出し画像

「必要とされる身体」の性差

 昨日のエントリでは「コミュニケーションに適した身体」について述べたけれども、これはもちろんそのような身体のあり方が一義的に決定されていて、誰しもがその同じものを目指せばよいという話ではない。当然ながら、身体の適応的なあり方は、その場において望まれているコミュニケーションの「目的」が何であるかに依存して異なってくるし、あるいはそれが同じであったとしても、個人の気質や属性などによって「ちょうどいいところ」は変化し得る。

 ただ、クラシックピアノを弾けるようになっていることがジャズピアノを演奏する際にも無駄になることはないように、ある状況における「コミュニケーションに適した身体」がひとたび体得されると、その本人は別の環境においてもふさわしい身体性を比較的容易に備えることができやすい、ということはあるだろう。クラシックとジャズという違いはあっても同じくピアノ演奏だ、というくらいの共通性は、条件によって多様に異なる「コミュニケーションに適した身体」のあいだにも存在はしているのである。

 とはいえ、そのように細かく見れば個人や環境依存の条件によって種々のヴァリエーションを有する「コミュニケーションに適した身体」であっても、それらを人間の属性ごとにまとめて見れば、やはりそこには一定の傾向が見出だせる。たとえば男性と女性とでは、コミュニケーションにおける適応的な身体性について(「目的」にもよるが)相当に異なるところがあるだろう。そして、先日の鼎談キャスで話したことは、基本的には「男性向け」の話であったから、この問題が女性についてはどう考えられるべきかということに関しては、主題的には必ずしも語られなかった。もちろん、このこと自体は鼎談者たちが全て男性であった以上は当然であるとも言えるし、ゆえに「当事者」の立場にないことについて敢えて語る必要もなかったのかもしれないけれども、個人的にはこのあたりのトピックは気になり続けてきたところでもあったので、以下ちょっと覚え書き的に記しておきたい。

ここから先は

1,980字
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?