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自閉した意識の中で、「現実」を叫び続けていたくはない

 だいたい似たような問題について似たような論争が、それにもかかわらず激しく繰り返されているインターネッツで、ただ黙々と英語等の勉強・成長日記を更新されているはむっちさんという方がいらっしゃるのだが、最近のエントリでも以下のものはとりわけ印象的だった。

 ここでテーマとなっている「リミッターを外す」ということに関しては、実感とともに理解できる人と、そうでもない人に分かれるかもしれない。はむっちさんは自身の中学受験時のことを例に出されているが、勉強や学問のこと以外でも、仕事やスポーツ、作品制作等で同様の経験をされている方々はたくさんいるだろう。ただ、それなりに多くの日本人が通過するイベントであって、その中で「リミッターを外す」経験を若いうちにしやすいのは、たしかに受験勉強がその最たるものではあるかもしれない。

 いずれにせよ、私が話していて面白い・楽しいと感じる人たちには共通する特徴がいくつかあるのだが、そのうちの最も大きなものの一つが、この「リミッターを外す」ということへの志向である。己の現状に自信をもち、そこで幸福を感じているということは当然ながら素晴らしいことなのだが、さらにその先があることも端的な事実として知っていて、歩みを止めさえしなければ自身がそこにたどり着くこともあるだろうと、卑下も増上もなく、己の積み重ねてきた生の事実から理解している。私にとってはそういう人はたいへん魅力的だし、他の多くの方々にとってもそうだろう。各所で常々述べているとおり、私は現代日本で最も教勢を伸ばしている宗教である「現実教」を好まないけれども、それもこの教説の与える規範が、人間のエネルギーを、現状をよりよい方向へと変化させることではなくて、そこで信仰の対象となっているところの「現実」を、ただ必然であり不変なものとして固定化させることばかりに、浪費させてしまいがちだからである。

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