心の中の「自然現象」
数日前に、こんなツイートをしたのだけど。
人間の感情(気持ち)の問題に関しては、このところのツイッター界でもずっとホットな話題であり続けているけれども、そうした気持ちに関する人々の呟きを眺めていて、一つ気がついたことがある。それは、どうも現代日本社会のそれなりに多くの人々は、気持ちこそが「自分」というもののリアルな本質そのものだと考えていて、ゆえにそれを周囲の他者や社会に承認もしくは肯定させることができないと、「自分」そのものを否定されたように感じてしまい、それで不幸になってしまうらしい、ということである。
以前の記事にも書いたことだが、少し時間をとって内観してみればわかるように、感情や気持ちというのは、私たちが自分の意志によって心に「浮かばせる」ようなものではなく、様々な条件づけの結果として、心に「勝手に浮かんでくる」ものである。
そんな感情や気持ちを「私そのもの」であると考えて、それに対する所有の感覚や責任感から、「この感情は正しい」とか、「あの気持ちは間違っている」とか、いちいち裁定を下してゆく行為というのは、比喩的に言えば、雨が降ったり風が吹いたりする毎日の天気(自然現象)について、いちいち「批判」を行うようなものなのだから、そんなことをしょっちゅうやっていたら、それは人生がしんどくなるのも道理だろうと私は思う。
ただし、起こってくる感情や気持ち自体に「正しい」も「間違っている」もないとはいっても、その感情に動機づけられて本人がする行為には、正や不正が問われ得るし、社会的な責任も発生することになる。たとえば、目の前にいる人に対して、「怒り」という気持ちが生ずること自体は止めようがないが、その結果として「相手を殴る」という選択をすることは止められる(ということに、ほとんどの人間の社会は合意している)ので、心の中のいわば「自然現象」として「怒り」が発生すること自体は罪に問われないが、それによって実際に他者を殴ってしまえば、それは多くの場合において、「有罪」だということになるわけである。
こういう事情に関して、ハードコアな宗教者の方々などは、「そんなわけで怒りは『あなた自身』ではないのだから、身体や言葉の行為として怒りを表現するのはやめましょう」と言われたりもするのだが、私自身は、そのようには思わない。これも以前の別の記事に書いたように、世俗の社会で生活する一般人にとって、時には怒りを(適法な範囲内で)表現することが、本人の生活や人間関係を改善することに繋がるケースは、(誰でもが実際には知っているとおり)しばしばあるからである。
こういうことは、もちろんいわゆる「程度問題」で、「怒り」以外の感情であっても、どの程度それに従い、どの程度それを他者に対して表現するかということは、状況に応じてその都度適切に判断する必要がある。
ただ、判断の結果として、その感情の要求することには従わないと決めた際に、そうした気持ちを「ただの心内の自然現象」だと捉えているか、それとも「私自身そのもの」だと捉えているかでは、その後に生じてくる感情や気持ちに与える条件づけが大きく変わってくるだろう。もちろん、後者の枠組みを選んでいる場合には、「自己が否定された」というネガティブな不幸の感覚が、次の心の状態を、条件づけてしまうということである。
私が最初に引用したツイートで、"「感じた気持ち自体に『正しい』も『間違い』もないが、それに私が対処する仕方には正誤があり得る」と考えておく態度"を、「おすすめ」だとしたのはそういうわけだが、そのように感情や気持ちから距離をとる態度というのは、「それ以外のもの」を知らなければなかなか難しいだろうとも思うので、ここは最近また重版になった『仏教思想のゼロポイント』を、未読の方にはぜひ読んでいただきたいと思う夜なのであった。
☆このエントリの内容をさらに敷衍し、問題の構造を詳細に解説した上で、具体的な対処法も述べた記事を、後日こちらに書きました。
※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画(私が単独で話したもの)の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の五本です。
2018年9月16日(1)
2018年9月16日(2)
2018年9月16日(3)
2018年9月23日
2018年9月30日
十月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の五本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。
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