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「気持ち」を批判できるわけがない

 今日のバンコクはいつものとおりの雨季の曇り空で、出かけるにはよい日和だったものの、ちょっと必要に迫られて、久しぶりにさぼっていたタイ語の勉強をがっつりやった。語学の勉強というのは創造性が削られていくような感じもするものだが、同時にどこかでその抑圧された創造へのエネルギーが、噴き出す場所を求めて暴れる胎動のような手触りもあって、私にとっては、いつまで経っても独特の感覚がある。


 私は「高度お気持ち社会」なる造語をして、しばしばそれを批判することがあるので、わりと「お気持ち」批判の急先鋒だと思われることがあるのだが、私は別に(しばしばそう誤解されるのだけど)人間の「気持ち」というものそれ自体を批判の対象としているわけではない。そもそも、「気持ち」というのは私たちの心に勝手に浮かんでくるものであるというか、より実態に即して言えば、私たちが「心」と呼んでいる現象の内実を構成する要素そのものなので、それは「批判」の対象にするようなものではないのである。「気持ち」というのは、単に私たちの内的な現象として生ずる「事実」に過ぎないので、それを批判するということは、空から雨が降ってくることを「批判」の対象とするようなものだからだ。

 では、私が批判の対象とするのは何かというと、それは「実際のところは気持ちであるものを、あたかもそうでないかのように言い繕うことで、人間が気持ちによって作り出してしまった現状の差別構造を温存しようとする人や行為」のことである。

 そういう意味では、私の立場は「気持ちの表出」を批判するものであるというよりも、むしろ「気持ちの隠匿」を批判するものであると言ったほうが実際のところに近いと思う。

 ただ、「気持ち」それ自体は「批判」の対象になり得ない、と述べたけれども、内的な現象として勝手に生じてくる「気持ち」に各々の人間が対処する仕方というのは、当然のことながら批判の対象になり得る。

 空から雨が降ってくることを「批判」の対象にしても意味はないが、外出の際に傘を差して身体が濡れないように「対処」することはもちろん可能だ。

 そういう「対処」を「自分の気持ち」に対してできない人は、やはり子供っぽいなあと私には感じられるし、一部の人がそうなってしまうことの淵源には、「気持ちの表出」ではなくて、むしろ「気持ちの隠匿」があるのではないかというのが、私のよく考えることである。


※以下の有料エリアには、過去のツイキャス放送録画(私が単独で話したもの)の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年5月29日
 2018年6月17日
 2018年6月23日
 2018年6月27日

 九月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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