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「ピンとくる」にも準備が必要

そういえば一昨日のキャス対談でもう一つよかったなあと思うのは、小沢さんが「自身の人生の基本的な方向性について深く葛藤している時は、むやみに色々と新しいことに手を出すよりも、まずは様々な自身を取り巻く文脈から距離をとる時間を作って、ゆっくり自分の身心の求めを聴くことを試みてみるのがよいと思う」と言われていたことである。

 これは私も心から同意することで、多くの人は問題の解決というのは何かを「する」ことによってもたらされると考えるし、実際にそうしないと解決できないことというのは多くあるのだが、世の中には「しない」ことのほうが対処法としてはむしろ適切であるような問題も存在する。

 自身の人生のありよう(=この世界における居住まい方=エートス)について悩むというのは、その種の問題の一つであって、「する」ことによって何を得たいのかということ自体に葛藤しているのだから、そこでさらに様々な「する」を重ねることは、しばしば問題をいっそう複雑にし、葛藤の糸を解きほぐすのを難しくしてしまう。

 敢えて「しない」というのは、そういう時に有効な態度で、外的な「すること」の刺激で自身を塗りつぶしてしまうことを「しない」でいると、残るのはただ己の身心をもって「ある」ことだけだから、そこではじめて内的な声にゆっくり耳を傾けるということが成立する。瞑想の一つの意義は、この状態に意識的かつ継続的に「ある」ようにすることだ。

 もちろん、自身が「する」ことで何を求めたいのかが不明確になっているのだから、むしろ新しいことをより多く「する」ことで、どれかが「ピンとくる」可能性に賭けてみる、という方針もあり得るだろう。実際、たいていの人はその仕方でゆくだろうし、それで満足できる結果に到達することもしばしばなのだから、これはこれで悪いとは決して言えない。

 ただ、これも対談の中で話したことだが、いまの自分にとって必要なものに対して適切に「ピンとくる」ためには、己の身心にそれなりの準備が整っていなければならないということもある。従来の自身を悩ませていた諸々の文脈と、雑多な刺激で鈍りきった状態の身心で「ピンときた」ものが、実は弱った者を捕食するための釣り針であるというのもよくあることだ。

 このあたりは当然のことながら個別の事例で判断が異なり得るところなので、過度な一般化には注意が必要なところである。しかしながら、深く悩んでいる時にこそ、ついつい軽挙妄動してしまうというのは人生で往々やってしまいがちなことではあるので、そんな時に上記のことを、ちょっと思い出せるようにしておきたいと、自戒を込めてここに書き込んでおく次第なのである。

(※以下は、もう少し具体的な話)

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