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他者の「手ざわり」

 告知のとおり、沼田牧師とのツイキャスを催行。開始即仏罰という不穏なはじまり方になってしまったが、蓋を開けてみると予想していたよりもさらにずっとずっと、素晴らしいお話をいただくことができたと思う。

(※録画視聴パスは3月1日の記事もしくはマガジンより取得できます。)

 私の視点から振り返ってみると、問題はやはり「きれいに切り分ける」ということの是非であったように思う(この言語化自体が「きれいに切り分けている」ことであるが、そこは平身低頭するとして……)。

 先日の記事では「マクロの規律とミクロのケア」という表現をしたけれども、私は他者に対して加害的な言動を繰り返すことが「非難されるべき」であるという規律を社会的に(マクロで)維持することは大切なことであると思っていて、ケアというのはその譲られることのない前提によって加害的な振る舞いを差し止められた「弱者」に対して、個人的に(ミクロで)行われるべきことであると考えている。キャスの中でも繰り返し述べたように、「ケア」がその本旨を遂げるためには、人間対人間の直接的で個人的な関係がそこに成立していることが、必要となるだろうと私は考えているからである。

 ただ、沼田先生は上掲のエントリでも示唆されているように、そうした形で「きれいに切り分ける」ことの不可能な、「出来事」としての人間関係における余白やあわいの部分にこそ、汲み取るべき大切なものが残されているのではないかということを、まさに「言葉にならない」メッセージとして、対談の全体を通じて伝えようとしてくださっていたように個人的には感じられた。

 そのような「出来事」としての人間関係を全体として捉えた上で、その余白やあわいの部分を慮るということは、おそらく人間の(物質的なそれもあるが、やはり何よりも精神的な)リソースを相当に必要とすることで、それを一度や二度ではなく年単位でずっと続けてゆけるということの背景には、やはり宗教的世界観も支えとして存在してはいるのだろうということも、改めて考えさせられたことではあった。

 なお、今回のキャス対談に関しては、様々なご感想を呟かれている方々がいらっしゃったのだが、その中に「ニー仏はこわい」という、たいへん率直で有り難いご指摘があった。ニー仏は(主観的には)とても優しいので、そのような印象を与えてしまったことについては遺憾であり汗顔の至りであるが、こうした所感を惹起させる原因に関しては上記の過去エントリにおいて厳しいご批判を賜って自覚したところであるから、今後も引き続き己の至らぬ点を猛省しつつ、素敵な方々との対話を進めてゆきたいと存じ奉る次第である。

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