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「いのちだいじに」のリソース

「利己と利他は両立不可能だから、『自分の命を大切にできない人間は他人の命も大切にできない』というのは間違いだ」という話を見かけて、ちょっと考え込んでしまった。私の理解では、「利己と利他は両立不可能」という認識と、「自分の命を大切にできない人間は他人の命も大切にできない」という認識は、両立可能だからである。つまり、二つの認識は、前者が正しい時には必ず後者は誤っている、という関係に立つものではない。

 なぜそうかと言えば、そもそも両者の認識は、その取り扱い対象としている問題が(私の視点からすると)異なるからである。「利己と利他は両立不可能」である場合に、「自分の命を大切にできない人間は他人の命も大切にできない」が誤りになると考えるのは、「自分の命を大切にする」のは利己であり、「他人の命を大切にする」のは利他だから、両者は相矛盾するという趣旨であろう。これは要するに、「命を大切にすること」という、言わばリソースの存在は前提とした上で、それをいかに配分するかという問題だ。

 他方で、「命は大切だ」という(行為の動機づけとなり得る)感情のリソースそのものが枯渇していることもある。限られた石油を利他と利己のあいだでどのように配分するかという問題以前に、そもそも原油が存在していないという状態だ。当然のことながら、リソース自体が存在していない時に、その配分について悩むのは二の次の問題となる。取らぬ狸の皮算用をする前に、まずは狸を捕ってこいという話になるわけだ。

 お察しのとおり、「自分の命を大切にできない人間は他人の命も大切にできない」が対象としている問題はこちらのほうだ。テーラワーダ仏教では、慈悲の瞑想をする際にまずは「自分自身」に慈愛の念を向けることからはじめるけれども、その背景の一つには、最も身近に知ることのできる己という人間こそが、誰よりも自身の存在と幸福を強く求めている(執著している)ということを最初に深く認識してはじめて、他の一切衆生も同様であろうとということに思いを致すことができる、という機微もある。

 自身の「自分」に対する根源的な希求(執著)を知らなければ、他人のそれも切実なものとして思いやることが難しくなるのは当然だ。もちろん、そのような実感の「リソース」を欠いていても、形式的で明示的な規範が与えられているならそれに従うだけで十分だ、という人もいるだろう。だが、私見では、社会の構成員のマジョリティにそのような態度を期待するシステムというのは、必ずしも持続的なものではないと思う。

 まあこのあたりは、どうしても「わかる人にだけわかる話」になってしまうのは避けられないのだが、私のnote記事というのは基本的にそういうものなので、そこはご勘弁いただくしかない。同時に、むしろ「そういう話」を聴きたいんだ、という方々がそれなりにいるということも知っているので、今夜はヨガ講師の方とたっぷり「わかる人にはわかる話」ばかりしてやろうと、開き直って画策しているところなのである。

 ちなみに、よく言われることではあるけれど、とくに東アジアの大乗仏教

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