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「もにょっとしない」時の対処法

 TLで映画情報がちらほら出てくるようになったので、とりあえず「エヴァ」をミュートワードにした。これは不測のバレを食らわないうちに、さっさと見に行っておかねばなるまい。

 noteの定期更新も(時々に休暇をはさみつつ)ずいぶん長く続けてきているが、ご購読いただいている方々はご存知のとおり、私の記事群は基本的にノンジャンルである。もちろん仏教や瞑想、また時には哲学やジェンダー論など、扱う頻度の高いテーマというのはいくつかあるのだが、それは単に私の来歴上、こうしたトピックに対して関心が向きやすいというだけのことであって、とくに意識的にその範囲内に話題を限定するようなことはしていない。他にも機会と気分次第で時事のニュースについて論ずることもあれば、ウェブ上の論争について私見を述べることもあるし、あるいは日常の生活経験に基づいたエッセイを書くこともある。各エントリのタイトルにしても、私は記事の内容の明確な「説明」になるようなものは原則として選ばないから、それを一見しただけでは、何について述べた文章であるのかは一般にはわかりにくいだろう。そのあたりも、おそらくは私の根本的な「ノンジャンル」志向の結果である。そういえば、エントリにタグをつけることも、なんとなく嫌でしていない。 

 こういう方針は人気や「バズ」を求めるのであれば言うまでもなく不適切で、人々の購読意欲をかきたてるには、記事群に通底するジャンルやテーマをはっきり決めて、より「キャラの立った」マガジンを作ってゆくほうがよい。実際に、特定の範囲の話題について特定の方向の意見を主に述べる記事を更新し続けることで、人気を博している noterの方々は何人もいる。「ノンジャンルで何でも書く」ことは「間口が広い」ことも一面では意味するが、どこにでも繋がり得る広すぎる間口というのは、敢えてそこを通る必然性をしばしば人から失わせてしまうものでもある。それよりはむしろ、特定の場所に繋がることがわかっている狭い間口のほうが、そこに行きたがっている一群の人たちに強く訴求するには役立つのだ。

 ただ、私の書く記事群が「ノンジャンル」になってしまうことにも相応の理由はあって、それは私の根源的な関心が、「ジャンルやテーマとして輪郭が明瞭に定まる以前のもの」に、常に向かっているからである。noteのプロフィールにも「もにょもにょ言語化」と書いているが、テーマやジャンルが既にはっきりと確立していて、最終的な意見の違いはあっても「それを対象化して語ること」自体には誰も違和感を覚えないようなトピックであれば、「もにょもにょ」してしまう必要はない。だが、私がいつもどうしても気になってしまうのは、そのような語りの対象として人々の認識に立ち現れることを未だ果たしていないような、不定形で確からしさを欠いた、まさに「もにょもにょ」した周縁の領域なのである。

 もちろん、たとえば仏教や瞑想やジェンダー論といったものは、ジャンルやテーマとして多くの人々が当然に語りの対象としているが、それらを扱う場合であっても、私はしばしば判明に成立しているように見えるそうした対象のうちで、なお輪郭が曖昧であって、議論の主題として広く人々に認識されるほどクリアに境界が画されていない、夕暮れ時の地平線のようにかすれた一帯を、好んで多く取り上げる。題材が何であれ常にその「もにょっとしたところ」を扱うという、私のこうした作文上の基本的な態度はそれなりに一貫したもので、こういう独特のスタイルを好んでくださる方々も一定数はいるようだから、そうした意味では私の文章も「間口が狭い」ところはあるかもしれない。

 ところで、私のこのような note作法の弱点は、書くべき題材を発見することにしばしば苦労してしまうことである。「ノンジャンル」で何でも書けるのだから扱い得るトピックは原理的には無数にあるわけだが、上述のように私はそうしたトピックの中でも曖昧な周縁部にほの見える、「もにょっとした」部分に引っかかることから文章を紡いでゆくので、その「引っかかり」に行き当たることのなかった日には、やはり苦しむことになるわけだ。ただし、これも長く続けてきたことの年功というやつで、こうした困難に対しても一定の効果を発揮できる、個人的な対処法はいちおう確立されている。

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