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宥しと受容が生ずる経路

 昨日の記事では「憎い相手に自分が似てしまう」ということについて、それはそもそも最初に相手を憎悪した時点で、自分の中にある嫌な部分(影)を、その他者の姿に見てしまっていた可能性もあるのではないか、という話をした。

 その上で、だからといって「他者を責めるな」という主張をしたいわけではない、という留保も付しておいたのだが、これにはエントリの中で述べた「健全な批判は必要だから」ということ以外にも、もう一つの別の理由がある。すなわち、「他罰はよくないからといってやめた人が次にすることは、たいていは自罰だから」ということだ。

 先回りして書いておくが、もちろん私はこのように言うことで、「自身の欠点を直視して、それを改善しようと努めること」を否定しようとしているわけではない。そうではなくて、私は「自身の欠点を直視し改善すること」と、「憎む相手を他者から自分に変えて罰すること」は、基本的には区別したいと考えているということである。

 当たり前のようであんがい当たり前ではないことだが、「欠点や問題を正確に見極めて、それを改善するために適切な手段を講じる」という時に、その対象である欠点や問題を「憎む」必要はない。むしろ、そのようなネガティブな感情を抱えていることは、しばしば問題に対処する際の負荷を増し、それを改善するための手段を実践することを困難にする。「問題を直視すること」と「それを憎むこと」を(ほとんど無自覚のまま)自然なこととして同視してしまっている人はそれなりに多いように思われるが、自身の問題について改善を望むのであればまず必要なのは原則として「懲罰」ではなく、むしろ「受容」なのである。

「他者を責めるな」が私の主張ではない、というのもこういう文脈に基づいた話であって、対象が他者から自分に変わったのみで、「責める」という基本的なモード自体は変わっていないのであれば、それは事態をよいほうには導かないと私は考える。問題の所在が自他のいずれであれ、「憎む」という余計な感情の負荷は、対象を直視しそれに適切な対処を施し続けることを、最終的には阻害すると思うからだ。

 もちろん、「健全な批判」が社会において必要なものであるように、「適切に罰すること」が問題の解決のために有効であることはあり得るだろう。ただ、その場合にもまずは受容によって問題を平静に捉えることができるようになることが、先に立つのが望ましいとは思う。これは「倫理的にそうあるべきだ」という話ではなくて、「そのほうがしんどくない」という話だ。何かについて怒り続けるということは、実は人間を相当程度に疲れさせ、最終的には損なってしまうことだから。

 とはいえ当然のことではあるが、「嫌なもの」を受容したり宥(ゆる)したりするということは、それを憎むことよりも難しい。ならば具体的にはどうしたらよいかというと、私の考えでは、そのためにできることは、

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