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相手の中に、自分の傷を幻視すること

「自分が最も憎んだ相手と自分がそっくりになってしまう」ということは、実際にしばしばあることだなあと、これまで多少なりとも人間を見てきた経験から思う。よく言われるのは、「毒親」を口を極めて呪詛していた人が、自身も年齢を重ねると親とそっくりの言動をしてしまうといったようなことだが、ことはそのような直接に交渉のある人間関係のあいだだけで起こるとは限らない。たとえばインターネットを通じて得た情報だけを通じて誰かを憎悪していた人が、いつの間にか(あるいは、ひょっとしたら最初から)その相手を鏡に映したような振る舞いをしてしまうといったことも、案外よくあるんじゃないかと感じる。

 こういう事態が生じるのは、「毒親」の例がおそらくたぶんにそうであるように、近しい人間をだからこそ憎んでいるうちに、その相手の振る舞いを自身も学習してしまったという要因が一つにはあり得るだろう。インターネットなどを通じて得た情報だけから嫌っている場合でも、人間というのはしばしば怒りの刺激に依存して、憎い相手だからこそひたすら観察し続けてしまうということを時にやりがちだから、それを通じて「敵」からの熏習(香の匂いが衣に移るように影響を受けること)が起きてしまうということもあるのかもしれない。

 ただ、私としてはもう一つ別の要因もあると思っていて、それは「誰かを憎いと思う時には、その相手の嫌悪すべき部分と似通ったところが、実は最初から自分の中に潜んでいる」という可能性である。俗に「好きの反対は無関心」と言われるけれども、誰かをとくに憎悪するということは、その相手に「引っかかる」何かが自身にあるということで、ひょっとしたらそのように「反応」してしまう原因は、自己の影を相手の中に見ていることであるかもしれないということだ。

 もちろん、全ての憎悪について上記のことが当てはまると言うつもりはないし、また仮にその事情が妥当したとしても、自身の「嫌な部分」を外在化して徹底的に否定することで、そうではない方向へと自らを成長させてゆく人も多いだろうと思う。だから、「自身の影を他者に見る」ことが、常に必ず悪い結果をもたらすとは言いきれない。

 しかし、他方で人間が自身の否定したいところを他者の姿に見出して、それをひたすらに攻撃することにより、己のことは見ないままで済ませようとするというのもしばしばあることだ。叩いている相手とそっくりの振る舞いをしてしまう人は、往々にして自身がそうであることに気づかいないものだが、それにはこうした機微もあるのではないかと思う。

 言うまでもないことだが、このように述べることによって、私は「だから他人のことは責めるな」といった主張を導きたいわけではない。常々言っているように、健全な批判というのはむしろ私たちが「大人」であるためにこそ必要なものであるとも考えている。

 ただ、「憎い相手とそっくりになってしまう人」を多く見てきた経験上、ひょっとしたら自分がそうなっている可能性だって当然に考えておく必要があると思い至り、何よりも自戒の念を込めて、このように思うところを記録しておくことにした次第なのである。

(※以下は、自跋というか、ちょっとしたコメント)

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