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さよなら神保町

会社を辞めた。
プシュ〜ウ、と音を立てて閉まる電車のドアがひとつの区切りのように思えて、なんでもそうやって物語にしたがる自分の脳みそに「ばぁか」と言いたくなる。ばぁか。うん、ばかだよな。
でも、今までのように毎日この駅に降り立つことはなくなるのだ。すこしくらい感傷にひたってみてもいいのかもしれない。


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辞めることは1月末から決まっていて、今日は最終出社日だった。
朝、出社してすぐに東京バナナをばらまいて社員の人たちにお礼を言ってまわった。前の席のYさんは自宅作業中だからメッセージを、と思ってせかせか付箋を埋めていたらわざわざ電話をかけてきてくれて、受話器越しにペコペコする。ありがとうございました、本当にお世話になりました。いざとなると定型文のようなことしか言えない自分が歯がゆかった。

ランチはいつも通り、歩いてすぐのファミマで。新作のカレードリアとちょっと高いプリンを買って会社にもどった。休憩スペースで、たらこパスタばかり食べる先輩がやっぱり今日もたらこパスタを食べながら「せっかくなんだから蕎麦食べに行けばよかったね」と言って笑う。そういえばひとつ案件が終わったり徹夜が続いたりしたときは、いつもみんなで少し高い蕎麦屋に行った。同僚はお好み焼きをかきこんで、「なんでこんな日まで忙しいんですかね」とつぶやく。直後、思い出したように「おつかれさま」と野菜ジュースをくれた。びっくりして、ありがとうと笑う。期間限定の白桃。あまくておいしくて、カレードリアとの相性は最悪だった。ありがとう。それが最高だった。
ほんとうに、数え切れないほど同僚に救われる日々だった。ふたりでぐちぐち文句を言いながら徹夜したこと、取材先で笑い転げたこと、ずっと覚えておきたいと思う。

休憩を終えて、ひとつずつ残りの仕事を片付けていく。やさしいメールがたくさん届いて、すべて目を通して画面越しに頭を下げた。このメールアドレスも、3月末で消える。目に心に焼き付けて、いつかの糧にしようと思った。

結局ぜんぶ終わったのは22時を過ぎてからで、デスクの上にこまごまと残っていた私物を片付ければあっという間にわたしの跡形はなくなった。

※最後に捨てたのは入社してからずっと使っていたランチパスポート。お世話になりました。


送別会はコロナ騒動で延期になった(正直わたしはこのままなしになってくれればいいなと思っている)から、あとはもう帰るだけだった。

さ〜て、と空っぽになった席を立ったら、上司が「おつかれさまでした。なにかほら、せっかくだし一言」とニヤニヤしながら近づいてきた。う。ちょっと考えてから、こういうとき当たり障りのないことがスラスラと出てくる自分に嫌気がさしながらも助けられる。ちいさな演説めいたことをして、ふかぶかとお辞儀をした。


みんな(とは言っても4人)に見送られながら、「おかし食べてくださいね〜!」と言い残してへらへら職場を去った。エレベーターがぐんと下がりはじめて、力を入れていた頬がゆるりとほどける。

2年弱つとめた会社。右も左もわからないペーペーを拾ってくれた会社。

出社初日のことは今でもよく覚えている。気合いを入れて慣れないヒールを履いていって、会社に着くまえにポッキリと折れたこと。周りの人が振り返るほど不器用な歩き方でなんとか駅を抜け、ABCマートでスリッポンを買ったこと。挨拶に持っていった最中を渡したら、社長に「ごめんねぇあんこ苦手なんだ」と言われたこと。
やっていけるだろうかと早々に不安になったけれど、知らなかった世界を知るのはわくわくしたし、新しいものは見れば見るほど楽しかった。ほんとうにわからないことだらけで、ただがむしゃらだったと思う。大変なことも多かったけれど、やりたいことに近づけていると思えば多少の我慢はできた。

じゃあなぜ辞めるのと言われれば、結局ずっと「あとすこしがんばろう」を維持するのは無理だったからだ。フィジカルもメンタルも強いと思っていたけれど、ほんとうはどちらも鈍くなっていただけだった。風邪をこじらせて入院したり、よく眠るための薬をもらったり、すこしずつ心身の不調が目に見えるようになってやっと「このままではいけないのかもしれないな」と気がついた。

もう一つウジウジ悩むきっかけになったお金と家族のことは、いつか書ければいいなと思う。自分の中で折り合いがつく日が来るのかはわからないし、不特定多数の人にさらす勇気もまだないけれど。今はとりあえず、「勇気がない」と言えただけでも成長ということにしておく。


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兎にも角にも、あした(もう今日だね)から次の仕事までの少しのあいだ、会社員という肩書きをなくして自由の身になります。
思えば、高校時代はゴリゴリの体育会系部活、大学時代はずっとサークルとバイトで、そのまま社会人になったからまとまった休みを取ったことがほとんどなかった。あっても旅行のための計画的な休みだったり、実家への帰省に使ったりしていて、何の予定もない空白の時間を過ごした経験があんまりない。

せっかくの機会だしのんびり一人旅でもしたかったけれど、驚異的なコロナパワーの影響でそんな感じでもなくなった。約束していたイベントやライブもことごとく中止や延期になっているので、ゆっくり体を休めろということなんだろう。あと、もろもろ滞っていたものも進めなければ。ここから巻き返すぞ。


退職を、無理にあかるく前向きにまとめるつもりはない。楽しいことはもちろんたくさんあったけれど、同じくらいつらかったし、しんどかった。いい人ばかりだったけれど、ずたずたにされたこともあった。ひとつずつ、自分の記憶の一部になることを受け入れて進んでいこうと思う。まちがった選択だって、まちがえてからじゃないとわからなかったはずだから。

それに今は、清々しさと感謝が同じくらい。そんなもんなんだ、すべて。マイナスな気持ちが大きくなる前に辞めることができて、きっとよかった。


言いたいことも自分の気持ちもうまくまとまらないけれど、残しておきたくて書きとめておく。

生ぬるい夜に、なぜか安心した。なんだ、大丈夫だ。世界はとっくに春だった。


早朝を裏切りながらねむるときまだ見ぬ人の足音を聞く


#エッセイ #日記

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