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自由について考える

ついに2023年度末を迎えることになった。
なんだかんだ言って、このnoteの投稿も27ヶ月目に突入している。
引き続き来年度も気ままな投稿を続けていきたい。

今回は反表現規制派こと”表現の自由戦士”について改めて書いきたいと思う。

”表現の自由戦士”とは

そもそも”表現の自由戦士”とは一体何なのかを改めて整理していきたい。

表現の自由戦士(ひょうげんのじゆうせんし)とは、表現の自由を守ることに情熱を燃やす反表現規制論者のことである。ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(社会正義戦士)に由来するインターネットスラングである。青識亜論のように自称する場合もあるが、基本的には蔑称として用いられる表現である。類似の概念に、表現規制反対派ムラというものがある。「表自系」、「表自界隈」と呼ばれることもある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%88%A6%E5%A3%AB
(注釈番号の削除など、一部修正)

掃き溜めXではよく、彼らとツイフェミとの論争をよく見かける。
漫画やアニメ、イラストなどの性的な表現(直接的な描写だけでなく、タイトなニットやブラウスでバストが強調されているものや、服は着てるが不自然な食い込みや影で胸や下半身などが強調されているものも含まれている)に抗議や排斥を求める声に対して、彼らはそれも表現の自由ということで排斥される理由にはならないとして対抗している。

掃き溜めXで暴れる話ができない連中ツイフェミに対して、カウンターができる存在ができたと期待されていた。
おまけに族議員も生み出しており、彼らの意見も一定数力を持ち始めている。

しかし目立つようになればなるほど、彼らは自らボロを出していき、同じ穴の狢でしかなかったということを証明してしまったのだ。

冷淡な仕返し

彼らは表現の自由、特に二次元の表現方法に対する規制や排斥を極端に嫌がり、表現規制派に対して徹底的に抗戦する。しかし、彼らは自分たちの興味がない分野に対しては非常に冷淡かつ非情な無関心さを放つ。

渋谷ハロウィンがいい例だろう。
渋谷のハロウィンといえば、誰もが知る”ハメ外し”のイベントの一つだ。多くの若者が渋谷に集まり、眠らない街と化してコスプレをした若者たちが集う祭りでもある。軽トラ横転させるなど、持て余したエネルギーで大きな”ハメ外し”をしてしまうのは確かに問題かもしれない。そして過激すぎるとも言えるコスプレも問題視する人もいる。
しかし新しい文化というのは、最初は奇異な目で向けられるし批判にもさらされるが、時には浮かれる日があってもいいと私は思う。

インターネットに定住している”表現の自由戦士”たちは、このイベントを当然のように悪とし、規制や排斥を訴えている。上記の軽トラ横転のような迷惑行為をしていることや過激なコスプレを下品としているのが主な理由だ。

ただ、彼らの上記の主張は矛盾が生じる。
”表現の自由戦士”たちが愛してやまないコミックマーケットだって似たようなものだ。(コミックマーケットの概要については下記参照)

コミックマーケット(Comic Market、略称:コミケ、コミケット)とは、コミックマーケット準備会が主催する世界最大の同人誌即売会である。1975年12月21日、批評集団「迷宮'75」によって開始された。現在は年2回の開催で、夏は8月、冬は12月に開催される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

いわゆるオタクの祭典とも呼べるコミックマーケット(通称コミケ)。このコミケの影響力は大きなものであると、票田の一つとして政治家たちも嗅ぎつけており、”親オタク”的発言をする政治家たちもいる。

しかしコミケも渋谷ハロウィンのことを否定できる立場ではないと私は思うのだ。コミケといえば二次創作とコスプレだ。

二次創作自体、著作権的にかなりグレーゾーンなものだ。しかし法律も金科玉条のごとく運用していては、どこぞの共産主義国のようなものになる。ある種の緩衝地帯として用意されたグレーゾーンの中で活動してるにすぎないと思う。そして原作無視と言わんばかりの、猥褻なものだってある。

コスプレも同様だ。野外にも関わらず、あまりにも露出が高い格好をして、それを痴漢同然のローアングルからの撮影も恒例行事と化している。

自分たちの祭典のコミケや漫画・アニメは「日本の文化」と言い、否定する者たちと断固とした態度で応戦する一方、渋谷ハロウィンなどは受け入れることなく下品などと断罪し規制するよう呼びかける。
自分の好きなものは「表現の自由」と叫ぶ一方で、自分の興味のないものはその自由を認めないというあまりにも酷いダブルスタンダードだ。

このダブスタの根底は積年の恨みが関係している。
先日のnoteで書いた”体育嫌い”と同様、こうした幼少期や学生時代の恨みとして、インターネットに浸かりきった”表現の自由戦士”たちは、陽キャのような人間を親の仇ばりに敵視しているケースがある。
そして陽キャが集う場として渋谷ハロウィンが槍玉に挙げられ、陽キャの趣味嗜好を奪うことで、幼少期や学生時代の恨みを晴らそうとしているのだ。

一昔前は漫画やアニメは子供のもので、いい歳した大人が見てると”犯罪者予備軍”のような扱いを受けていた。しかしそれらが市民権を得て”後ろめたさ”を気にする必要がなくなった今、”表現の自由戦士”たちは冷淡な仕返しをするようになったのだ。

コロナ禍においても同じような事象が起きた。
公衆衛生の名の下で私権制限が横行した中で、ライブハウスやクラブなども休業に追い込まれたところもあるだろう。また会食・飲み会なども制限された。ライブハウスやクラブ、フェスなんかはまさしく表現の一つだろう。
また、会食・飲み会もだ。お酒の席で多少ハメを外して自己を開示して楽しく会話する様は、まさに立派な表現の一つだ。

”表現の自由戦士”たちはこうした”表現規制”に対して真っ先に立ち向かわなければならないはずだ。しかし彼らは守ろうとしなかった。
公衆衛生の敵と認定し、これらを排斥する立場に回った。また「これを機に未来永劫なくなってほしい」と書き込むものもいた。
その一方で、自分たちは「衛生意識が高い」だの「モラルがある」だの”歴史修正”を行い、コミケは守ろうとした。

ただの既得権益に成り下がったのだ。

自由というのは、ただ自分の好きなことをするというものではない。
自分の好きなものを守り干渉させないなら、自分と相容れないものも同様に守らなければならない。

人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。 何かを得るためには同等の代価が必要になる。 それが錬金術における等価交換の原則だ」。

人気アニメ『鋼の錬金術師』の冒頭で語られていた台詞だ。

”表現の自由戦士”たちは愛する漫画・アニメの規制や干渉を受けないという自由を得るには、自分たちが相容れない文化や趣味、それを好き好んでいる人たちの自由も認めなければならない。
こうした等価交換・トレードオフのようなものが自由の本質の一つだ。

稚拙な主張

近年では「反AI」に”表現の自由戦士”たちが近づいている事例をよく見る。
「反AI」についても改めて確認しておきたい。

主に画像生成AI及び生成物に疑念を持つ、或いは嫌悪している人物への総称。画像生成AIが普及したタイミングで生まれた言葉である(普及は文章生成AIが早い)。

https://dic.pixiv.net/a/%E5%8F%8DAI#:~:text=%E4%B8%BB%E3%81%AB%E7%94%BB%E5%83%8F%E7%94%9F%E6%88%90AI,%E3%81%84%E3%82%8B%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%B7%8F%E7%A7%B0%E3%80%82

Adobe Fireflyをはじめとした生成AIというのは非常に暮らしを効率化している。(実は今回のnoteのサムネイルもAdobe Fireflyで「表現の自由」と入力し作成したものだ)

サムネイルに使用した際、Adobe Fireflyのクレジットが載せられなかったので
同一のものを掲載。

例えばchat GPTにコードレビューを依頼したり、noteのAIアシスタント機能で記事のネタを収集したりと”モノを創る”人たちにとって、手助けしてくれるありがたい存在だ。

しかし、「絵」に関しては違うらしい。”表現の自由戦士”たちはAI絵を敵視している。彼らからすれば、生成AI画像というのは”絵柄の盗用”しており、生成AI画像が蔓延れば絵師たちは淘汰されるという考えの元で敵視している。彼らの主張を一つずつ見ていきたい。

①絵柄の盗用

「生成AIは制作者の許可なく無断で学習し模倣するので、これは絵柄の盗用であり著作権違反だ!」という主張だ。

お気持ちが先行しすぎて、反論の余地がありまくりだ。
その主張が認められると、「じゃあ人間が他人の絵を真似ることも違法なのか」という問いに一瞬で詰んでしまう。
”日本の文化”だと豪語するコミケで売られている二次創作は、版権元に許諾をとっているのだろうか。

答えはNoだろう。

著作権では保護されない絵柄・作風にも、あたかも保護されているかのように誤認し「盗まれる」と表現するのは稚拙すぎるし、自分たちの首を絞めるだけなのだ。

②生成AI画像が蔓延れば絵師たちは淘汰される

もうこの辺の主張は、私が呆れているのでサクッと終わらせる。

カップラーメンが開発された結果、世のラーメン屋は全て廃業したのか?
チェーン店のラーメン屋が出たら、個人店は全て廃業したのか?

答えはNoだろう。

それぞれの棲み分けが細分化されたにすぎない。

何にもする気力がないなら、お湯を入れるだけでOKなカップ麺が便利だ。
仕事帰りで夜が遅くなりサクッと外で食べたい場合は、夜遅くまで営業してることが多いチェーン店が便利だ。
食事に満足感を求め、味・雰囲気など全てを楽しみたいのなら、名店のようなところに行けば良い。

それと同じことだ。

自分たちの居心地の良いものが奪われるかもしれない、そんな恐怖感があるかもしれない。だが、それを規制するのではなく自分が凌駕すれば良いのだ。自由のもう一つの側面は自堕落かつフリーライダーでいようとする者には容赦しないのだ。規制を設けようとするということは、自ら無責任なフリーライダーになるという宣言に等しい。

”表現の自由戦士”は”表現の無責任戦士”に成り下がってしまった。

そして魔女狩りへ

2024年3月に起きた代表的な騒動を挙げておく。

これらは別に生成AIを使用したことは明記されていない。
しかし、「AI画像っぽい」という疑いだけで炎上してしまったのだ。

顔の向き、ポージングがほぼ固定など「人間のイラストレーターだったらやらない」という主張で”生成AI使用罪”で非難されている。

かつて蛇蝎のごとく嫌っていたツイフェミと同じところにまで堕ちてしまった。

自分が他者の著作物を利用し、二次創作やミーム遊びをするのは認めてほしい。(何なら作品愛は著作権よりも強いという論を展開する)
でもAIの二次創作は許さない。
自分たちは作品愛があるから許される、例え原作を無視したような猥褻な二次創作であっても。

”表現の自由戦士”は”表現の無責任戦士”へと成り下がり、次第にただの”エロ漫画利権集団”になってしまった。

私は規制が大嫌いだ。
そして自由が何よりも大好きだ。
だからこそ、「自分たちが相容れない文化や趣味、それを好き好んでいる人たちの自由も認める」し「自堕落な人間は容赦ない扱いを受ける」という対価を支払える。
そして対価を支払うために自己研鑽を続ける。

「毎日が全盛期」を合言葉に。

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お知らせ

(ここだけ、ですます調でいきます)

2024年度から読書メモを始めようと思います🎉

政治・経済・歴史だけでなく、私の仕事柄読むような本もちょこちょこと書いていこうと思います!

「1分でわかる!」みたいな要約はできないのですが、私見なども踏まえて色々書いていこうかな〜って感じです。
(砕けた感じのレポートだと思ってください)

あとリクエストも募集です!

更新頻度は気まぐれで恐縮なんですが、是非ともよろしくお願いします〜

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