トマトを好きな人と、嫌いな人
ある動画を見ていて、良いなと思った説明がある。
私はトマトが好きではないけど、この世界にはトマトが好きな人がいることは知っている。ただ、私はなぜ彼らがトマトを好きか理解できないだけだ。だからと言ってトマトが好きな人を嫌うわけではないし、自分がトマトを好きな人よりも優れているとは思わない。
この言葉を聞いて、「きっと全てはこれだけなんだろうな」と思う。
自分が生きたいように生きるのがどうしてこんなに大変なのか。
わたしはやりたいことをやって、女の子と一緒にいたかったり、男の子と一緒にいたかったりするだけだ。
トラウザーを着たい時もあれば、ふりっふりのドレスを着たい時もある。
人を愛したい時もあれば、一人でいたい時もある。
女の子でいたいからエストロゲンを打って、男の子になりたいからテストステロンを打つ、ただそれだけ。それの何がおかしいのか。
この世界には二つのカテゴリーしかないなんて、そんなものないよ。特に人間の脳に関しては。
善も悪もない。
みんな決まってちょっと善でちょっと悪だ。
一つに決める必要なんて、どこにもない。
人間の脳は小さい。ワーキングメモリはもっと小さい。
だから人は物事を2つのカテゴリーによく分ける。
だけどそんなことするんじゃなくて、もっと単純に、やりたいのかやりたくないのかの二択で考えればいいじゃん。
そっちのほうが簡単だし、きっと優しいよ。
好きになれるか、なれないか。一緒にいたいか、いたくないか。きっと日常生活なんて、それだけでいい。
この人はこういう人って決めなくても、大切な人じゃないなら無関心でいい。大切な人だったら、たくさん知ろうとするから2択にしなくてもいい。
全てを知る必要もなければ、全てを好きになる必要もない。
好きなものだけ、あとは無関心。
セクシャルマイノリティを蔑む人も、他人が自分と同じではないだけで自分の好きなものを否定されたように感じる人も。ねえ、きっとそれだけなんだよ。
今の社会システムの苦悩から抜け出した人も、外側から笑っていられる人も、そういう人を見て嫌悪感を覚える人も。宗教家も科学者も哲学者も。
社会の中の対立は、きっとこんな小さなことがわからないで起こっている。
みんな必死なんだな、と思う。自分の価値を認めるために必死なんだ。
だから、自分の価値を健康的に認める方法を”教育”しないと、多分一生終わらないよ、この戦い。
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