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私の一部

水曜日、大学が休みの日。

出不精な私は、何も予定がないと全く家から出ないのだけど、今日はいろいろ細々と用事があって、家を出た。

所在ない気持ちが朝から絶えなかった。
ふわふわとした気持ちをなんとか宥めながら家を出、バスに乗る。

女性ホルモン周期の影響か、この頃は特に精神状態が悪いのだけど、学期末、様々な事務的なやり取りや期限をクリアしているうちに、精神がさらに摩滅している。
加えて、今朝早くからホストファミリーが旅行に出た。
しばらくは、ハウスメイトと犬と私の、静かな暮らしになる。

普段、あまりやらないことをやっていると、別の世界に来てしまったかのような錯覚をする。

町の図書館に本を返すために、いつもとは違うバス停で降り、見慣れない道を歩く。
いつもと違う時間に家を出て、どこか泣きそうな気持ちを抱えながら、大学へと向かう。

人と会う予定がたくさんあるのに、どうしても気分が上がらない。
こういう時、大抵は家でおとなしくしているのだけど、今日は事務手続きが満載だからそうもいかない。

所在ない気持ちに耐えながらバスに乗っていると、ふと、数ヶ月前のアメリカ電車旅と同じような気持ちだということに気がつく。

周りに、私と関わるものが何もない場所。

私は、生きながら、私の一部をそこかしこに散りばめて生きている。

私が昔生きた街には、過去の私が今でも橋の上を歩いているし、今を生きているこの街には、過去バスに乗った私が何人もいる。
生きて、覚えるということは、きっとそのようなものなのだ。

それが、一気になくなってしまったような心地。
見知らぬ街に、一人で来てしまったような、所在なさ。
それが今の私の、浮ついた気持ちの正体なのだろう。

過去の私が、この街には確かにいるはずなのに、今の私とシンクロしない。
私が、私だけ、空に浮いているような気持ちになってしまう。

そういう気分になると、私はよくエッセイを読む。
太宰治がお気に入りだけど、最近買った、好きな詩人さんたちのエッセイも読む。

そういった人たちが紡ぐ、少し抽象的だけど日常な文章が、空に浮ききっている私には心地が良い。

読んだ文章を、私の中で発酵させて、外に出す。
こういう時期の文章は、大抵少しネガティブで抽象的だ。

だけど、そういうのが必要な時がたまにあるんだろうなぁ、と思いながら、人に会う時間が近づいて来たので、今日はこの辺で終わります。
そろそろ、専門分野なパリッとしたnoteも書きたいな。


#エッセイ #コラム #日記

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