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詩と歌は、もっと街中に溢れた方がいい


中学生の頃、百人一首大会をやっていた。
学年で行われる大会で、まずはクラスでの予選があり、その順位ごとに学年でグループを作って大会をする。

私は1位グループにいて、体育館のステージの上で、同じく各クラス一位の子達と円を作って札を取り合った。


百人一首は好きだった。
小学生の頃から読んでいたか、それとも中学に上がってからか、記憶も曖昧なのだけれど、確か小学6年生の時に一度、百人一首のカルタ取りが流行った気がするので、きっと小学校からなのだろう。
その時から、私はずっと百人一首が好きだ。

昔の言葉で読みにくいけれど、たった三十一字に詰められた情景描写が好きで、当時は50首以上諳んじられるほど、熱心に覚えた。
何度もなんども読み返して、なぜか家にあった古語辞典でわからないことを調べた。
制限付きの中、それでも感情を揺さぶる力がある言葉たちに惹かれていた。

当時の階級制度や、男女関係を基盤に置いてつくられた歌。
現代の私たちでは想像がし難いはずなのに、それでも胸を締め付けられたり、涙が出そうになることを考えると、人間は当時からそう変わっていないのだと感じる。


こんな昔のことを思い出したのは、妹から「最近古文が好きなんだよね」と連絡が来たからだ。
このメッセージを読んだ時、私は嬉しくなった。
本は全然読まない妹だから、文学の話で共感できることがあるとはあまり思っていなかったからだ。

妹もちょうど中学生だから、百人一首大会があるのだろうか。だから、古文に興味を持ち始めたのかもしれない。
私が古文にはまっている時は、遠巻きに見ていたくせに。
そんなことを思いながら、今古文の話をしている。


中学生の頃の百人一首大会は、やる気の差が顕著だった。
体育館のステージには1位、2位、3位のグループがいて、この組は大抵上の句が詠み終わる前に札が取られるのだけど、下位半分のグループはきっとやる気もないのだろう。札を取っているか取っていないかすらわからなかった。

確かに、百人一首なんて覚えても意味はない。
生活を助けることもなければ、受験にだって必要がない。覚えたところで、使い道はカフェで人と話している時に、少し引用できるかもしれない程度のものだ。大会のためだけに覚えるなんて、バカバカしいかもしれない。

私だって、当時覚えた歌のうち、少なくとも半数はもう忘れてしまっているし、もっと忘れている子だってたくさんいるだろう。だからと言って、生活が圧迫されるわけでも、精神に負担がかかるわけでもない。


ただ、ふとした時に、例えば梅の花を見た時なんかに、昔覚えた歌が浮かんでくると、「ああ、豊かだな」と思うことがあって、梅の花や月を見ただけで情緒が動かされるような人生は、とても味わい深いと感じる。

百人一首なんて覚える必要はないけれど、きっと人生は、百人一首を覚えるくらいの余裕があった方が楽しい。

あと、和歌や詩のポテンシャルが一番発揮されるのって、生活の中にぽっと出てくることだと思うので、もっと壁とか階段とか街中の広告に、和歌や詩が溢れればいいなと感じる。

私も今日は、久しぶりに新しい和歌でも覚えようかな。

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