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海に行く

神社は、豊かな森に包まれている。内宮の本殿は、美しく整えられている。そのような場所に、時間をかけて赴き、神前で手を合わせる。そのようにしてしか、整えられない心のありようがある


海に行かなくてはいけないと思った。
心の整理をつけるために、私は海に行く。
日本にいた時は山に行っていたのだけれど、今住んでいるところだと海の方が身近なので、ここ2年ほどは海に向かっている。

海に向かって、何も考えずに空っぽになる。
心を整えている。
とりとめのないことが浮かんでは消えて、波の音を聞いていると、日本にいた時に行った神社のことを思い出す。
人が神社に行くのも、同じような感覚なのかもしれない。

以前、神社がどのように立てられるのかについて興味を持ったことがある。
詳しくは調べなかったけれど、神社がある場所は、どこか”清らか”な空気を持っているところが多い。
森林の中だったり、川の近くだったり、何かの影になっていたり。
気温が低く、外界から遮断されているような感覚が得られるところ。そういうところに建てられた神社が沢山ある。

だから、人々はそういうところに神社を建てて、心を整えていたのではないかと、海を見ながらふと思ったのだ。

お墓参りに似ている。
お墓参りも、本当はそこに骨を置いておく理由なんてないけれど、私たちが故人に対しての気持ちの整理をつけたい時に、ただそこにある、きっかけとなる場所が合った方が良いのだ。


このnoteのはじめに引用した言葉は、茂木健一郎さん著の『ありったけの春』というエッセイ集に出てきた言葉だ。
神社とは、心を整えるきっかけになるための場所だ。

宗教と日常生活の乖離が進んできた現在の日本では、人々はどうやって心を整えているのだろう。
もしかしたら、心の整え方を知らないまま、ささくれだつ日常を過ごしてはいないだろうか。

心の整え方にはいろいろある。
それは瞑想だったり、神社に行くことだったり、海に出かけることだったり、人によってそれぞれだけど、共通していることは、心は「整えよう」と思わないと整わないということだ。

一度、感覚器官が拾い続ける外部の情報を、自分の思考回路がよく見えるようになるまで絞らなくてはいけない。
外部の影響に流され続けている状態では、心はどんどん乱れていく。
乱れた心では、情報過多を起こして爆発しやすくなる。


人は、社会に出るまでに、心の整え方を学ばなくてはいけないのではないかと思う。


私が心を整えるために必要な条件は、「今すぐにでも死ぬことができる」と実感できることだ。
だからこそ海に行き、山に登る。
死に近づく時、私の中にあるいろいろなものがちっぽけな存在になる。
私はその感覚が、割と好きだ。

海から離れる。
最寄りのバス停まで数十分、人通りもほとんどない道をただ歩く。
今日も現実へと戻っていく。
心にあったわだかまりは、全て海に流してきてしまった。
好きな音楽を聴きながら、これからのことについて考える。
すっきりとした頭でならば、色々な解決策が浮かんでくるような気がした。

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