過剰な反応
過剰に反応してしまう時というのがある。
それは、私たちの意識では捉えられないほど深くに位置し、そして私たちを形作っている何かが起こす反射のようなもので、私たちがそれを捉える事は容易ではない。
アメリカに来てからというもの、自分とは全く異なる価値観で生きる人に出会う機会が増えたように思う。
それは単に文化の違いを目にすることが増えたのが一大要因ではあるが、日本語での関わり合いの中でも相当に多様性が拡大したと感じている。
多様な人と関わるたびに自己が確定し、自分の中の多様性を認められるようになってから、少しだけ生きるのが楽になった。
日本にいた頃は、ある一つの型に嵌らなければいけないという強迫観念がはり、日々奮起していたから。
過剰な反応というものは、その是非を問わずして他事に対してある程度盲目になってしまうものだと思う。そして、自分の反応の過剰さに気がつかない限り、盲目であることにも気がつけない。
私たちは大抵の時間、自分の正当性を疑わずに生きてしまうから、過剰さから導き出された論理が偏ってしまっていることに気がつかないまま、人にぶつかる。
「人は自由に生きるべきだ」とする主張も私の抑圧された経験から形作られたもので、不自由に対して過剰に反応してしまう私の性質は時折私を盲目にする。
もちろん、不自由を強いられている人を思うのはこの社会では意義があることだけれど、不自由を自分から受け入れている人にまで手を出そうとしてしまうのは、偏に私の過剰反応だと思うのだ。
人には自分の人生を自分で決定する権利があり、私がそこに何やかんや言うのはお門違いで、相手が望んでいない限り私の行動は全て私のためだけのものへと変わる。
厄介なのは、過剰な反応というものは理性でどうにかできる存在ではないということだ。
それは過去の経験だったり、社会的洗脳だったりするけれど、Noを唱えることは容易ではない。経験に痛みが伴っていれば尚更だ。
盲目になってしまうことは怖い。盲目によって、世界は戦争へと直走って来たのだから。
だけど私たちが真に聡明となれることも、きっとないのだろうと思う。
「違う価値観を受け入れるべきだ」とする昨今の先進国の主張だって、数ある考え方の内の一つであって、それは正義ではない。
正しさとは歴史が決めるもので、後の時代からしか評価ができないのだから。
近代哲学の最大の発明は「懐疑論」であるとする主張を最近どこかで見かけたが、それには納得できるものがある。
私たちは考え続けることしか出来ず、現状が正しいか疑うことでしか未来の精査は出来ない。
そのことを念頭に置いていないと、世界の問題の議論をする時に反対の意見を弾圧したり、論争を重ねることによって「自分こそが正しいのだ」とする自信を固めてしまうことにつながり、世界は更に混沌とするのだろう。
まぁ、私のこの主張も価値観の一つでしかないわけだけど、未来というものは少なくとも私たちには判断が出来ないので、より良い未来のために現状を常に疑うことは、現状唯一の解決策だとは思うんだよなぁ。
人間の平穏はやってくるのだろうか。
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