誰のものでもない言葉
自分が気に入らないと思って公開したものが、時折思ったよりも反応を集めることがある、というのを、私はネットを通して初めて知った。
昨日のnoteは、教授と話してから帰る道で、ぽっとタイトルが浮かんで、翌日目が覚めてから、四苦八苦して書き始めたnoteだった。
書いている途中も、書き上げてからも、どこか納得がいかなくて、ギリギリまで公開を躊躇し、就寝前に思い切って公開した。
そのnoteに、いつもよりも反応をもらえたことに、「人ってやっぱりわからないな」と思う。
自分と違う感覚を持って生きている人がいるということを、確かに理解しているつもりなのだけど、こういう時、私は全く理解していなかったのだと痛感する。
理解していたら、反応がもらえたことに驚きはしないのだ。
私にとって文字を書くということは、儀式に近い。
自分の中にあるモヤモヤとした感情を、言葉に当てはめて吐き出す時、やっと感情を規定して、自分のコントロール下におけるような、感情を乗り越えていけるような、そんな感覚がする。
その感情の抽象性が高いほど、言葉に当てはめるのがうまくいかなくて、自分の感情に暴力を振るっているような心地がする。
「私が言いたいのはこれじゃない。この文は、全然感情と似てない」と叫びだしたくなる。
どれだけ言葉を尽くしても、慎重に言葉を選んでも、確実にこぼれ落ちてしまうものがあって、いつも言葉足らずだと感じている。
だけど、きっと言葉は、足りないからこそ人に渡った時、共感を呼ぶのだろう。
言葉は吐き出された瞬間、私のものではなくなる。
感情の規定をするためだけなら、別に文章を公開する必要はない。
書き溜めて、自分のメモに残しておけばいいだけだ。
だけど私が文章を公開するのは、それがもう私のものではなくなってしまったという確証が欲しいからなのかもしれない。
もちろん、共感してほしいという思いもあるのだろう。少しは。
だけど、私は捻くれているので、「わかります!」と言われると、ちょっとムッとしてしまう。
共感なんてできるわけがないと傲慢にも思っているし、わかってほしくないという気持ちがどこかにある。
吐き出された言葉が、誰かの心を打つ時、私は言葉というものの力を実感する。
バックグラウンドも、家族構成も、今日の朝食も、何もかも違うのに、私たちは同じ言葉を使って何かを得ている。
他の人に取り込まれた時、その言葉はもう私のものではなくて、彼らのものだ。
彼らの実感が、吐き出された言葉に意味を持たせ、彼らの何かを刺激する。
そこに私は、介在しない。
私を介在しないで、言葉を通じて、意味が伝搬する。
私は、言葉が私のものではなくなった後、もう一度私の言葉を読み込んで、自分のものにしてしまう時がある。
でもそれは、吐き出した過去の私のものではなくて、読んだその時の私のものなのだ。
そうやって再吸収された私の言葉は、また新しく咀嚼されて、別の言葉に変わる。
文字というのは不思議なものだ。
誰のものでもない記号は、誰かの目に映る時、確かに意味を持つ。
共感することも共鳴することも、どうでもいいと思ってしまう私だけど、言葉が打ち鳴らす共鳴だけは、どこか心地いいなと思ってしまう。
不思議だよ、言葉って。
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