図書館の床に座りながら本を読んでいた時のこと


小さい頃、あれは確か小学校高学年から中学生にかけてだったと思うけれど、図書館の専門書が置いてあるスペースに頻繁に通うようになった時。

初めは児童書の部屋からスタートして、何がきっかけかは忘れてしまったけれど物理に興味を持ち始めて、児童書の部屋の検索端末で本を調べた。
そうすると見覚えのない番号が書いてあって、「これってどこにありますか」と司書さんに聞いたのを覚えている。

「これは二階だね」と言い、二階の司書さんに連絡をしてくれて(二回は大人向け書籍が置いてある)、私は緊張しながら階段を登った。
あの頃は、大人向けの階に行くのがハードルのようになっていて、それはそれは胸を跳ねさせながら登ったものだ。

二階の司書さんに話をして、そしたら司書さんは「ちょっと待っててね」と言い、後ろにあった鉄格子の部屋に入っていった。
大人向けの本が置いてある場所とは別の部屋だった。

少しして戻ってきた司書さんにそのまま貸し出し手続きをしてもらい、私は重たい書籍を抱えながら(持っていた手提げには入らなかった)、母親の車に戻った。


最初は、その鉄格子の部屋には「入ってはいけないのだ」と思っていた。
司書さんは毎回私に探させずに探してきてくれたし、そこに入っている人を見たことがなかったからだ。

だけどいつからか、私はその部屋に入り浸るようになっていた。

きっかけはなんだっただろう。
入って行く人を見かけたとか、そんなことだったのだろうと思う。
入り浸るようになった私は、床に座り込んで本を読むようになった。

椅子もなく、棚と棚の間にある狭い通路だった。
座り込んだ私は物理の分厚い本のページをただただ捲る。
書いてあることは半分くらいしかわからないし、理解も曖昧だ。だけど読む。読み続ける。なんとか理解しようとして頭を働かせる。他のことを何も考えなくてもいいこの時間が好きだった。

もう長く座り込んでいると、探しにきた母親が私を見つけて声をかける。「まだいるんだったら、どこかに行っていてもいい」と聞かれるので、曖昧に肯定を返し、「また1時間後に来るね」と背を向ける母親を見送る。
そんな時間を過ごしていた。


この話を小学校の同級生や中学の友達に話したことは、恐らくほとんどない。少なくとも、私は話した記憶がない(もしかしたら話してるかもしれないけど)。
学校の先生にわからないところを相談することもなければ、大人に話すこともしなかった。中学の先生ではわからないと思っていたし、そうであれば塾の先生に聞けばよかったのかもしれないが(塾の数学の先生は数学専攻だった)、なぜか話したことはない。わからないものはわからないで、そのまま取っておきたかったのだと思う。


今、大学に行き色々な分野の教授と話す中で、これまで自分一人でやってきた勉強を他人の力を借りて進めるという経験が増えてきた(そう多いものでもないけれど)。
この経験はとても不思議なもので、今までわからなかったことはネットで検索して情報や論文を探したり(これのおかげで情報リテラシーが育った)、自分自身で考えることしかしなかったので、わからないものを誰かに聞くという経験が乏しい。

どこまで聞いていいのかわからないし、自分で解決できるものまで聞いてもいいとされることに、若干の戸惑いを感じている。

だけれど、人は変わる。
長年その研究をしていた教授に聞いた方が遥かに広いレベルで情報を集めることができる。
自分でやっていた検索では引っかからない情報を、彼らは持っていて、一人では見れない部分まで見つけることができる。
幸いにも教授は私との会話を楽しんでくれているようでもあるし、これから先こういうことをする場面も増えていくのだろう。

だけど私は、きっと何回も子供の頃の図書館での時間を思い出すし、今も時折、そのような場所を探しては座り込んで本を読むのだ。

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