難病と診断されて、冷静に考えた 難病って一体なんだっけ?

ジストニアと診断され、病院から帰った日。
朝起こった過呼吸を思い出すとまた起きてしまうのではないかとこわくなる。

気を紛らわすために、眠くなるまで友達に電話をしてつきあってもらった。
友達と話してる間は、冗談いったりしながら病気の事だって笑い飛ばせる。
だが、1人に戻ると突然不安におそわれる。

朝まで知らなかった病名が、いまはあまりにも自分事だが、ジストニアへの知識はまったくに等しいほどない。
病院で簡単な説明は受けたものの、ありきたりなストレスが原因てやつ。
たしかにストレスと言われて思い当たる節のまったくない人などいないだろう。
わからないからGoogle先生にまずお尋ね。
ジストニアを検索。
関連ワードが怖すぎて、見れば見るほど絶望しそうだったので、ネットを閉じた。

こんな時、ハッピーな関連の検索ワードが出てこないのはなぜだろう。
世の中の辛いと思われることや、治らないと思われる病気、そんな事を検索した時、希望いっぱいのハッピーな検索ワードだらけだったら、もしかしたら世の中で不可能と言われていると事があっさり覆ったりするのではないだろうか、と想像してみたりする。

病気で絶望しそうな人が、その病名を調べると、気楽なワードがでてくれたら気持ちも軽くなるのに。

これは私の妄想で、実際の検索ではネガティブなワードだらけ。
これは悪くないものもぐっと悪くなってしまった気持ちになる。

あなたは難病です。って突然言われるその響き。さらっと告られたが、つい今朝まで普通に生活していたこちらには想像以上にダメージであった。

難病の名前の話をしたいわけではなく、病は気から、は本当にある。という話。
実際私はセラピストをしていて何度もそういう場面を経験させてもらった。
ジストニアと診断されてから6ヶ月がたった今、またそれを自分で実感させてもらっている。

難病って、治らないわけではなく、治し方がわかっていないだけ。はっきりした原因がわかっていないだけ。
もしもはっきりした原因を教えてくれる人がいたならば…?
きっと状態は変わる。
ありがたい事に私は今そんな人に出会えた。

その言葉に希望をもらうか、絶望させられるか。
これは大きなその人の別れ道になる。
それも運。と言ってしまえばそれまでだが、自分がこうなって強く思ったこと。
治療よりも何よりも、言葉の力って大きい。
それが嘘でもほんとでもいい。
絶望しないでいられる希望の持てる言葉が欲しい。
真実を知りたい、その気持ちもあると思う。
でも真実なんて本当は誰もわからないんだ、と思った。
そんな中、難病と言われたこの状況に希望を与えてくれる人に出会えた私は幸せだ。

これからの私は希望を与える人でありたいと思うし、世の中が皆んなの考えや伝える言葉がらそうであったら、病気なんて激減するのではないかと本気で思っている。

実際、今のコロナ報道もネガティブな側面がメイン。
コロナで隠れてしまっているきっと同じくらい起こっているであろうハッピーな出来事。
対して、コロナの感染者数や死亡者数。
この報道の割合がもしも逆だったら。

何でも大変だ!って伝える事が大事なのかどうかは、今の私にははっきりわからない。
だが、大変だ!って言われれば言われるほど、気持ちの余裕がなくなる事だけは経験してみてよくわかった。

また話がそれてしまったけど、話は戻ってジストニア。

そうは言っても、自分を省みたときに、何の問題もなかったか、と言われると、はっきりなかったです、とは言い切れない。
私は100%自分を大切にしてた。
とは言えないし、そうできない時だってきっと沢山あった。
その時の自分やそれまでの自分を振り返って思うところは色々ある。
そして自分がなぜこうなったのか。
どんな事に気づくためなのか。
きっと意味がある。
意味もなく、こんなわけのわからない症状が人の体にでるなんてないだろうと思っている。
だからその意味を自分でわかれば、その時身体は元に戻るのではないだろうか。

自分を大事にしてるつもりで、体をだましだまししてた事。
体を騙すってことは、心にも大きなダメージがあったであろうこと。
それをどこかで気づいていながら、まだ体をがんばらせようとしていた事。
いつも体の機能は一生懸命休むことなく働いて、私を毎日生きさせてくれていた。
そんな頑張ってる体が悲鳴をあげてるのに、まだまだ頑張れ!と知らない間に痛めつけていた自分。
まるでワンマン社長のように、自分の心も身体も当たり前と思って操ってしまっていた事。
そしてその事自体にも気づかずにいた私。

自分が元気な時は人の痛みや辛さなんて、ほんとはわかっていなかったんだ、と今になって思う。

そして元気に毎日目覚めるというのは、当たり前ではないんだという事も。

私はこれまで幸せな事に、大きな病気をすることなく、また肩こりや体の痛み、女性特有の生理痛などもない、健康そのものの身体だった。

首が辛い、肩が辛い、心も身体も辛い、そんなお客様にはたくさん会った。
そして、その時の自分はその辛さを聞いて、また体を直接触らせてもらって、感じてわかっているつもりだった。
今思い返すと、本当に"つもり"だけだった。

自分の経験した事のない苦しみは、所詮想像することしかできない。
想像することはとても大切だけど、やはり体験と想像はまったく別物だと気づいた。
かといって、全てを体験することなど普通の人間にはできない。

そんな中、自分はジストニアになった。
誰でもなるわけではない病気。
今まで経験したことのない体の強張り。
時には痛み。
不安や背中を元に戻そうとする反動からくる胸の痛みや過呼吸。
それに伴う怖い気持ち。
どんなに楽観的でポジティブな人間でも、やはり不安になる。
そして、こんな時に元気な人から軽く放たれるポジティブな言葉は、人をポジティブにするものではないということ。人の心に寄り添うことって簡単ではないんだな、ということ。

その気持ちだって、自分が不安な状態になってみなければ、私には想像できなかった。自分の想像の外の気持ちだった。

自分の中の新しい経験が次々と。
新しい気づきが次々と。

これをわかるために、私こうなったのかな??
だとしたら、治ったときはもっと人の気持ちがわかるセラピストになれているかな。
そんな事をうっすら考えながら、引っ張られる体を仰向けに寝転がして、昨日よりは少しだけ冷静になった自分がいた。
明日目が覚めたら、突然治っているといいな…と思いながら、難病と言われた日の夜の話。

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