ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」

『たとえ幾千人幾万人のものが、天上のパンのためにお前の後からついて行くとしても、天上のパンのために地上のパンを蔑視することの出来ない幾百幾千万の人間は、一体どうなるというのだ? それともお前の大事なのは、偉大で豪邁な幾万かの人間ばかりで、そのほかの弱い、けれどもお前を愛している幾百万かの人間、いや、浜の真砂のように数知れぬ人間は、偉大で豪邁な人間の材料とならねばならぬというのか?いやいや、我々にとっては弱い人間も大切なのだ。彼らは放蕩者で暴徒ではあるけれど、しまいにはこういう人間がかえって従順になるのだ。彼らは我々に驚歎して、神様とまで崇めるだろう。なぜというに、我々は彼らの頭に立って、彼らの恐れる自由を甘んじて堪え忍び、彼らに君臨することを承諾したからである。で、最後に彼らは、自由になるのを恐ろしいと感じ始めるに違いない!しかし我々は、自分たちもキリストに対して従順なので、お前たちに君臨するのもキリストのみ名のためだ、といって聞かしてやる。我々はこうしてまたもや彼らを欺くが、もう決してお前を我々の傍へ近づけないから大丈夫だ。この偽りの中に我々の苦悶があるのだ。なぜなら、我々は永久に嘘をつかなければならないからだ。さあ、荒野における第一の問はこういう意味を持っているのだ。お前は自分が何より最も尊重している自由のために、これだけのものを斥けたのだ。』

無神論者イワンが自ら創作した詩劇を、純粋な心を持つ修道僧の弟アリョーシャに対して語り聞かせます。上記は地上に戻って来た救世主イエスに対して、大審問官が語るシーンです。

この小説を初めて読んだ時、人の本質、神との関係など、この世界の真理が正にここに書かれているのに、何故世間では誰の話にも登らず、誰も喧伝していないのか、とても不思議に感じた位です。もしかしたら世の中に知られてはいけない秘密なのかと。

神というものが存在するなら、なぜ幼児虐待が現実の世界では起こるのかというのは、今でも最強の無神論者の根拠だと思います。

しかしその後、ゾシマ長老の年若き兄によって語られるこの世界に対しての感激と歓喜の言葉の数々はそれに拮抗する力を持って迫ります。

『お母さん、大事なお母さん、僕が泣くのは嬉しいからです、決して悲しいからじゃありません。僕がすべての者に対して罪びととなるのは自分の好きですよ。ただ腑に落ちるように説明が出来ないだけなんです。だって、皆の者を愛するにはどうしたらいいか、それさえわからないんですもの。僕はすべての人に罪があったって構やしません、そのかわりみんなが僕を赦してくれます。それでもう天国が出現するのです。一たい僕はいま天国にいるのじゃないでしょうか?』

高尚も低俗も、慈しみも憎しみも、賢も愚もすべてを包み込むようなとてもスケールの大きな小説です。

#ドストエフスキー
#カラマーゾフの兄弟
#米川正夫

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