先祖母の米寿祝を掘り下げていたら、幻のロープウェーにたどりついた/ある歌人神官がみた明治(9)
今回は特別編。明治ではなくて昭和の話題になってしまったので。「葦の舎あるじ」一族の貴重な集合写真からみえてきたものとは。
明治29年 帰郷を詠んだ2首
何度か述べてきたように、葦の舎あるじは5歳で父と死別。熊本の五高を経て明治28年ごろに上京し、國學院へ進んだ。明治29年、帰郷にあたり歌を詠んでいる。
明治の学生さんは、「いま実家」とチャットする感覚で和歌を送るのだろうか。42番も「実家戻ってるとこだけど、それよりも君のこと考えちゃうヨ」などと送る都の友人とは、いったいどういう友人なのか。彼は他にもそういう匂わせを詠んでいるがここでは紹介しない。
↓ こちらに書きました ↓
歌集の中でも、この詞書のように何年何月か明確な歌は少ない。夏季休暇の里帰りだったのだろう。2か月あまりふるさとで過ごし、9月に東京へ戻ったようだ。
母は、名もなき人として子を支えたのか
なんというか、「亡き父に捧げる挽歌/ある歌人神官がみた明治(7)」で、亡父を偲ぶ歌をいくつも詠んだのとはうらはらに、母の存在感は薄い。久しぶりの帰郷も上記のありさまだ。モラトリアム。アララギ派の斎藤茂吉の「死にたまふ母」とまではいかないにしても、なんかもっと、ほら、みたいな気持ちになる。
夫亡き後、幼かった子を五高・國學院と進学させ一人前に育てた葦の舎あるじの母は、どのような人だったのだろう。
実は、明治37年の官報にその存在が記されていた。
おそらく日露戦争開戦のためだろう、陸軍への寄付金が全国から集められており、葦の舎あるじは、当時奉職していた宗像大社の神職一同とともに名を連ねている。そして、彼の母も、別途寄付した記録が残っている。
ただし、記載された名前は「葦の舎あるじ母」だ。
※もちろん葦の舎あるじは本名で載ってます、念のため。
さて、時はぐっと進んで昭和。ここに一枚の写真がある。
裏には葦の舎あるじの筆跡で
「葦の舎あるじ(本名)母 八十八賀祝
筑前姪浜町にて
天盃拝受記念」
と、記されていた。
おやおや、ここでも「葦の舎あるじ母」か。
左から3番目の男性が葦の舎あるじであろう。想像だが、左側の女性が彼の長女、私の祖母タツの母だと思う。
おそらく中央の少女がタツで、葦の舎あるじ母を挟んですわっている子が、私の実の祖父にしてのちに田島の家を売る太一、葦の舎あるじ横の男性はタツの叔父、あるじの長男ではないだろうか。
長男は、五高を経て九州帝国大学卒業後、上京して立身出世を遂げている。祖母の米寿祝いに家族を連れ、久々に福岡の地を踏んだのだろう。
なぜ姪浜だったのかさぐっていて見つけたアタゴノケーブルカー
この写真がいつ撮られたものかはどこにも書かれていない。だが、おそらく昭和9年くらいではないか。タツは満8歳。また、太一の横にいる乳児が、昭和9年1月に生まれたタツの従弟なら、つじつまが合う。
であれば、葦の舎あるじはこの時、還暦。大宰府天満宮の禰宜だったころだ。世間は満州事変の特需で昭和恐慌を脱し、つかの間、こうした祝宴で一族うち集うことができた時期だったのではないか。
しかし、なぜ賑やかな市内ではなく、故郷宗像でもなく、当時の奉職地の大宰府でもなく、姪浜なのか。当時、祝い事で集まる定番の料理旅館のようなものでもあったのだろうか?
何か手がかりがないか調べていて見つけたのが、「アタゴノケーブルカー」だ。
昭和3年、日本で2番目、九州では初のロープウェーが、姪浜の鷲尾愛宕神社の参拝輸送目的でオープンした。「愛宕山ケーブルカー」「アタゴノケーブルカー」と親しまれていたようだ。
まったく根拠はない妄想だが、せっかく一族集まる祝宴の場所だ。ロープウェーはもの珍しく、さぞかし母も孫たちも喜ぶだろう…葦の舎あるじの胸に、少し、そんな気持ちがあったのではないか。あってほしい。
あるじたちが、当時評判だったアタゴノケーブルカーで空中散歩を楽しんだかは定かでない。でも、彼らが母の米寿を祝っているとき、姪浜の愛宕神社には確かにロープウェーがあった。久々に集う親戚の話題にもなったろう。
そんな想像をすると、わずか15年で武器の材料にされてしまったロープウェーが、なおさらあわれだ。
アタゴノケーブルカーの遺構は、地元の有志によって調査・整備が進められているらしい。
リンク先では貴重な営業当時の写真や、フィルム映像がローカルニュースで取り上げられた様子をみることができる。
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