恋歌。「エモい」で済むなら31文字も要らない/ある歌人神官がみた明治(11)
明治29年は、葦の舎あるじにとって恋の年だった。のだと思う。恋歌が突出して多い。逢いたいのに逢えなくて、思いをつのらせる青年の歌だ。
思わないようにしようとすると、かえって忘れられない
明治29年に詠んだと思われる53首のうち、17首が恋歌である。明治30年は1首のみ、明治31年は64首中12首、33年に至っては1首もない。※『随感録』は32年の歌が存在しない。
怒涛の連作。逢いたい、逢いたい、逢えない。君のことばかり考えてしまう。どストレートに思いのたけがこもった和歌ばかり。
この相手が誰なのかはわからない。帰郷の途中「君が忘れられない」と送った「友人」かもしれないし、違う人かもしれない。
ただ、おそらく、「うつしゑの君」ではないと思う。理由は別途。
26番の「思はじとおもへど…」という表現は古歌にもみられる。「考えないようにしようと思えば思うほど、かえって頭の中があのひとでいっぱいになってしまう」…そうだ、恋ってそういうものだ。
『源氏物語』葵巻で六条御息所が苦悩するように、「思はじと思ふも物を思ふなり」(思わないと思う自体、思っているということ)である。
しがらみも多く、逢いたいのに逢えない
30番は、在原業平の
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
の本歌取りなのだろう。
世の中に人めのせきしなかりせば かかるおもひのあらざらましを
「人目の関」、世間の目ということだろう。珍しい表現だが先例がないわけではない。
人の目というものがなければこんな思いをしなくてすむのに、という意味。その前の歌も同様だ。
あさにけに時をもわかずこふれども ほだしある身をいかにかはせむ
「絆」という文字、「きずな」だとポジティブに使われるが「ほだし」になると、邪魔なもの、妨げとなるものになってしまう。「ほだされる」ってそういうことだったのか。
勉学のために上京しているのに、恋愛にうつつ抜かしてる場合じゃない、ということだろうか。
きのふこそ逢ひみそめしかいかなれば かくまで人のこひしかるらむ
(出会ったのはついこの前だというのに、どうしてこれほどまでにあの人が恋しいのだろう)
こんなにも好きだ、こんなにも逢いたいという熱烈な歌はこの後も続く。
もしかすると片想い…なのか…?
思いはつのる一方だが、なかなか逢えない日が続いている葦の舎あるじ。狂おしいほどの恋心が伝わってくるものの、どうも想いは一方通行のような気もする。
33番は「深き契りをむすぶ」とか、ドキッとさせるが、「あひみぬ人」と物理的に契りは結べない。2次元対象に「俺の嫁」と宣言するようなものだ。
43番は「逢えないんだからそもそも別れがない」というやや逆説めいた歌。どれだけ逢えてないのだろうか。
というかやはり、これは片想いの歌ではないだろうか。
くるとあくとわすられがたきいもにしも あはでいくかもすぐしつるかな
明けても暮れても忘れられない愛しい人と、逢わないまま何日も過ごしている…
恋歌でありながら、「いくよ(夜)」ではなくあえて「いくか(日)」なのは、深い仲ではないからでは?
契りおきしことだになきをいかなれば かくまで人のこひしかるらむ
約束したこともないのにどうしてこんなにまであの人が恋しいのか
この場合の「契り」は男女的なものではなく、ほんとに「約束」くらいのニュアンスであろう。ていうかやっぱり片想いだよね。
さて、この恋の行方は…To be continued!
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