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悪いことをするから悪いことが起きる?

これから書く内容はあくまでもワイの自論である。
これが正しいというものではない。
そして、わかりやすくお伝えするために詳細な説明は省いている。
それを踏まえて読んでほしい!


因果応報
善い行いをすれば善い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある
仏教の言葉だが、そんな知識はなくとも誰もが聞いたことがある言葉だと思う。
教育として親からこのようなことを言われたひともいるかもしれないね。

「トイレを掃除するといいことがあるよ」
「キレイ好きはいいお嫁さんになれるよ」

なんてね。
令和の今ではジェンダーハラスメントだわな(笑

善いことをすれば善いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる。
なんだかもっともなことのように聞こえるし、まちがっていないともワイは思う。
でも、正しくないとも思えるのだ。


ワイがなぜ原始仏教を独学しているのかというと、原始仏教の経典には歴史的人物としてのゴータマ・ブッダが語ったことが書かれているからなのだ。
大乗仏教はゴータマ・ブッダが亡くなった数百年後に、在家信者が起こした宗教運動によって興ったものだ。
すでに亡くなってしまったゴータマ・ブッダを想像力豊かに妄想し、神格化し、理想を掲げてつくられたものだ。
そして、大乗仏教経典にはそれぞれ著作者がいる。
だから経典にはその著作者の仏教に対する解釈や理想が書かれている。
まぁ極端な言い方をすると、大乗仏教経典の内容は純粋なゴータマ・ブッダの教えではなく、著作者の教えなのである。

大乗仏教は、どのような典拠を、どれほど探索し尽くしても、それが釈尊の直接の教え(「金口の説法」)では、けっしてあり得ない。

講談社学術文庫『バウッダ[佛教]』中村元・三枝充悳 83頁


そんなわけで、ワイはゴータマ・ブッダの教えを学びたいので原始仏教にこだわって独学をすすめている。


さて、話に戻る。

悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。
悪いことをすれば、後に悔いる。
善いことは、するほうがよい。
なして、後に悔いがない。

岩波文庫『ブッダ 神々との対話 ━サンユッタ・ニカーヤⅠ━』中村元訳 114頁

もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣き叫びながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善いのである。

岩波文庫『ブッダ 神々との対話 ━サンユッタ・ニカーヤⅠ━』中村元訳 134頁


手近にあった本から例を出してみた。
同様の内容の詩偈はたくさんある。

上の例については悪い報いとして後悔しか書かれていないけど(よい例文がすぐに見つからなかったスマン…)、古い経典において「悪いこと」とは心に生じる怒り、怨み、悲しみ、悩み、落ち込み、後悔などのことを言っている。
実際に目の前で起きる出来事のことをいっているのではないのだ。

なお、施しをすれば財が得られるなどという詩偈もあるけど、こういった内容のものは在家信徒に向けられた言葉である。
これを見る限りだと「やっぱり善いことをすれば善い出来事が起きるんじゃん!」と思われるけど、これはゴータマ・ブッダの方便だとワイは思っている。
古代インドでは現代よりも厳しいカースト制がしかれていたらしいのだが、そんななかゴータマ・ブッダは、カーストの最下層民や、カースト制から除外されたさらに下層のひとたちにも平等に教えを説いていたとされている。
そういった下層民はおそらく教育を受けていないから、難しいことを言っても理解できなかったと思われる。
だから、正しい倫理を教えるためにこのような方便をとったんじゃないかなぁ~とワイは考えている。

ゴータマ・ブッダは対機説法といってね、その時々の相手に対して相応しいやり方や言葉で法を説いていたのだよ。


※以下の文章は今回のテーマとは関係ないので興味のない方は読み飛ばしておくんなんし。

これは余談なんだが、
輪廻転生や、人間界の上に天上界があってそこには神々が住んでいてという世界観は、もともとは仏教よりも古いバラモン教からの思想なんだけども、これを踏まえて説法しているのも方便なんじゃないかとワイは思っている。
例えば、善い行ないをして功徳を積めば死後には天上界に生まれることができるなどである。
ゴータマ・ブッダは「自ら経験して得たことのみを信じろ」というようなことを言っている。
それを考えると、輪廻転生や天上界の存在を、ただの人間だったゴータマ・ブッダが実際に目にしたことがあるとは到底思えないのだ。
この思想が当時のインドの社会通念だったとしても、「自ら経験して得たことのみを信じろ」という彼が、これを盲目的に信じていたとはワイは思えないのである。
さらにいうと、彼は当時のインド社会の大勢力であったバラモン教を否定するという革新的でマイノリティーな思想家であった。
現代日本でいうところの「出る杭」といえるかもしれない。
そのような人だったからこそ、当時の社会通念を否定する考え方をもっていたとしてもおかしくないと思うのだ。
だから、輪廻転生を踏まえた説法も方便だったのではないかとワイは思うのだ。


さて、悪いことをすると悪い出来事が起こり、善いことをすると善い出来事が起きると思っていた方々よ。

身近な出来事を見ていればわかると思うんだけど、
善い行ないをしている「いいひと」にも悪い出来事は起きているでしょ?
なんの罪もない人が交通事故に遭ったり、真面目に働いていた人がひどい暴力に遭ったり…。
逆に、悪い行ないをしている人が会社で昇進したりとか、たなぼた的に金銭をゲットできたりとか…。

つまり、善い行ないをしている人にも悪い行ないをしている人にも、善い出来事は起こるし、悪い出来事も起きるのだ。
悪い出来事については不運としか言いようがない。

あらためていうが、「悪いこと」とは行ないの後に心に生じる怒り、怨み、悲しみ、悩み、落ち込み、後悔などのことを言っているのである。


自分に降りかかった不運は自分の悪い行ないのせいで起きたのだと思って、自分を責めたりはしていないかい?
いま自分が病気なのは、自分が過去に悪いことをした報いなんだと思ってたりしていないかい?

そうじゃないんだよ。
ただの不運なのだ。
たまたま自分に降りかかってきた不運なのだ。

ひとは自分の行動だけに影響されるわけじゃない。
むしろ周囲の環境に多大に影響される。
自分にはどうにもできないことはあるものだ。
それも経験して誰もがわかっているはずだと思うぞ。

ならば病気や不運を自分のせいにして自分を責めるのはやめるべきである。
他者を攻撃して苦しみを与えることが悪い行ないなのであれば、自ら自分自身を責めることも悪い行ないなのだ。
だれもが心穏やかでいたいはずだぞぃ。


おちまい


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