自分の言葉って。

言葉にするって難しい。。


自分の考えや気持ちを言葉にしたくてnoteを始めたけど、何を書いたら良いかわからなくて、日々文章を書いては消し、書いては消している。

毎日頭の中には気持ちや考えが渦巻いているのに、いざ言葉にして外に出そうとすると、うまく言葉にできない。


あった出来事。
好きな歌のこと。
おもしろかった本のこと。
大好きな芸人さんの話。

毎日いろんなことを感じながら生きているのに。

自分の中の何かを外に発しようとすると、なにかブレーキがかかる。
なんでだろう??正解も不正解もない、ただ自分の思いを綴りたいだけなのに。




そんな風に考えてたら、昔の出来事を思い出した。小学生の頃のこと。

小学生の頃、私は作文を書くのが好きだった。その時の私は、自分の素直な感情を文章にできていたような気がする。母や先生にも上手だと言われていて、母に褒められることはそんなに多くなかったので、嬉しかったのを覚えている。


ある日、市のコンクールに私の作文を出してもらえることになった。私は自分が「選ばれたこと」「認めてもらえたこと」がとても嬉しく、得意な気持ちになった。
今まで書いた「作文ノート」の中から応募するものを選ぼう、ということになったのだが、
私は自分でどの作文を応募するか決められなかった。
自分が書いた作文を、自分が選ぶという行為が、自画自賛のようで当時の私にはどこか恥ずかしか感じたのだ。
あくまで「勝手に選ばれて、出されちゃった」スタンスを保ちたかったような気もする。自分に自信がなく、否定されることがこわい私は、そのようなところがあった。


そして、どの作文を応募するかは先生に決めてもらうことになった。


そこで何を思ったか先生は、ある日の授業で先生が黒板に書いて、生徒に板書させた作文を選んだのだ。
(今考えるとその授業なに?って感じだが。そういう授業があった。)

そして、わたしの名前で先生が書いた作文がコンクールに出される、という奇妙なことが起こった。結果は落選だった。





先生は自分の腕試しをしたかったのだろうか?
特に意味はなかったのかもしれないが、当時のわたしは「何かおかしい」とうっすら思いながらも、異議を唱えることも怒ることもできず、こっそりと傷ついていたのだった。


その時の私にとって、先生というのは、「大人」で、理由もなく「正しい人」だったのだ。先生が間違ったことをする、なんて微塵も思わなかった。

今考えると、自分の名前で他の人の言葉を世に出すなんて、小さな市の小さなコンクールであってもなんだかぞっとする。
しかしその一方で、自分の言葉が評価されることの恐怖から逃れて、ホッとしていた部分もあったのを、なんだか恥ずかしくも思うのだが。




そしてその時の私のことを考えると、なんだか切ない気持ちになるのだ。

なんであの時、自分の作文を、言葉を、気持ちを大切にできなかったんだろう。




怒れなかったその時の私に代わって、いま、怒ってみようかな。




自分が書いた作文生徒の名前で応募するってどういうことやねーん!!!
私の気持ち考えろー!!!
そんで、自分が書いた作文生徒に板書させるってどーゆー授業やねーん!!!
生徒の独創性大切にしろー!!!



ふぅ。。なぜか関西弁っぽくなった。
すっきりしたかは微妙だが、まぁ、いい。




自分の言葉を使いたい、そんな風に考えてたら思い出した出来事。
ブレーキをかけているのは、過去の傷ついた「私」たちかもしれないな。

今の私が自分の言葉を使うことで、過去の「私」たちが癒されてくれるといい。


少しずつ「自分の言葉」を探していこう。

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