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小説を読んでいる時のあの静寂が好きだ――それは身体

カフカの「変身」を読んでいた。

仕事終わりにひどく興奮気味な夕方だった。内蔵すら疲弊し切っていて、ご飯を食べるか迷った、結果何も決定できずに布団に寝転がりスマホをいじる。

元営業インターン新卒の男の子とのペアプロであった。相手の現在の知識と思考する力が分からず疲れ果てていた。

これはネガティブな意味ではない。シンプルに頭をフル活用した結果の充実した疲弊だった。相手がどのぐらいの理解度なのか?どのように質問をすれば今の自分の説明の正しさが評価できるか、その思考的重さで潰れかけていたわけだ。

人の気持ち・思考をオンライン上で推し量ることは難しい。上手なペアプロができなかった。不正解を怖がっている相手を安心させることができなかった。引き続き「正しいものを書かないと」と思ってしまい、私が教えたことにフィードバックを返しづらいままになった。

人の気持ちをオンライン上で推し量ることは難しい。1日を費やし感情的に疲れ果てていた私は、その感情疲労を癒やしたかった。

「20分の執行をしよう」

行動によって自分を癒やし、自分自身を説得する。

あたりを見回し、数分悩んだのちカフカの変身を読み始めた。カフカは見た目軽くつまめるぐらい短く、それなのにずっと放っておいた負い目があった。

触ることだけに意識を集中する。ページを開く。Siriにタイマーのセットをお願いした。

声は思考と身体の間にある。

音声入力が執行をより流してくれる。


文字列を読み進める前に、軽く目を閉じ暗闇と対峙する。

ストレス度合いは80%ぐらい。心臓がどくどくと音を立て目が充血している。世界が目の中に入りこむようだ。息が荒く吸うことができない。身体・内臓が眩しく光っており、私は彼らをしっかりと見定めることができない。観察の焦点が合わなかった。

ペアプロは感情労働であった。彼は私の説明に「わかった」と言わなければいけないなと感じてしまいがちであった。理解力がないと思われたらどうしよう、と。

一方私は、この子はどこまで理解しているのだろう?どこまでを指示すればよくて、どこまでをやらせるか?暗い渦に飲まれた。

はじめのうちはやってみようでできないから、ペアプロをするわけだ。一人では得られない体験を作り出すために、ペアプロをするわけだ。

全部教えれば相手に嫌われはしないだろう、けれど全く相手のためにならない。相手のためになることのためには、少なくとも相手に課題を重圧をかける必要がある。広くペアプロは二人の協力で成り立つ。

嫌われるかもしれないという怖さとの対峙だった。独りよがりで分かりづらくないか?課題がめんどくさく感じられないか?しかもオンラインで反応がとても不明瞭だった。

頭をフル回転させ、相手の認識をパズルのように予想し相手のわかる説明を考える、そんな普段あまり使わない疲れだ。


疲労には小説。今までずっと優先順位が下にいた。読む人であることには憧れていたが、読みたくなかった。自分を癒すことにも、無為に過ごすように感じられることも怖かったから。

脳を自由に奔走させること。思考や自分をさまざまなところに旅させることが脳の疲労をもみほぐし、固くダマになってしまった部分をざくざくと潰していく。

20分変身を読んだ。ところどころ追えずに目が滑ってしまったところがあったが、500kgの重しをつけるように地に足をつけて執拗にゆっくり読んでみた。丁寧に情景を想像し、脳内でセリフを口に出して世界へと入り込んでいった。

するとどうだろう。強かったストレスが一気にすっとほどけた。ついさっきまでは呼吸をしただけでは押し流れないような固く詰まっていた感覚が消えた。無意識には気づくことすらままならなかった身体の力みたちが、溶けてほぐれて散っているのを感じた。

小説のストレスに対する効果よ。そしてもたらされる静寂の癒やしたるや。

あの静寂の感覚、時が止まって音がなり、水面が凪ぐ瞬間が好きだ。ひたすらその湖面の横で頬杖で本を読んでいたい。

その世界の空は青くない。むしろ紫やピンク色になっている。凪いで生き物が静まり一体化した感覚。

一体化するということが大切なのかもしれない。

私の特にお気に入りのストレスに対峙する方法が、他にも二つある。

自然と芸術である。

pinterestで自然のピンをひたすら集め、時折ボードをぼーっと眺めている。そうすると、体内でじわじわと柔らかくラムネが溶け去るときのように体温・炎症・熱を引き去っていく。呼吸が遅く深く細くなるのを自然と感じられる。

Google Artsを順不同に見ていく。その意味をすり抜ける感覚が心地よかった。意味がないという不快で不満ではない。意味を取ろうとする自分の手がすり抜けてしまう。青いのれんに寄りかかろうとして転びそうになる。

特に意味を追求する過熱的な思考のあとは、自然を思い起こす。自然は自身の矮小さを想起させる。自然はコントロールできなさ・包容力・畏怖である。自身に一切コントロールできないし、コントロールできないことを元来受け入れてしまっている存在のこと。

芸術によって意味の追求力を受け流すこと。疲労させ脱力させる。合気道のように相手の力を使う。自分の中の大きく騒いでいる不安たちが困惑する。困惑し、口をつぐみ、凪ぐ。不安が意味を求める。意味を・ストーリーを・コントロールを求める。

不安を凪ぐ不気味。不安をショートさせるのだ。

小説はどのようにこの感覚たちに繋がっているのだろうか?まだわからない。小説は意味を感じずに、今を乗り継いでいけばよいものだ。そして映画やアニメとも違う。自ら今を乗りこなす。今の文章を読みこなす必要がある。

そうやって、「意味を追求する」ことを自然と放棄することになる。そういう意味で、きっと小説を読むことがよい。

意味から離れるための小説。運動にも似た身体性へ、何かが繋がっているかもしれない。

ここでも、思考から身体へと回帰する・一体化することが大切になっている。

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