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本を読むことは理想を広げることで、書くことは諦めること

適切に行動をするために補助輪として書く文章と知識を勉強するために必要な文章って全然違う気がする。どういうところが違うかな。

私はnoteの記事を書く3月ぐらい前まで、かれこれ2年ぐらいObsidianというアプリで文章を書いていた。その文章は色々な知識を勉強するために書いていた。ObsidianというのはPersonal Knowledge Managementと呼ばれる分野で良く使われるもので、リンクを駆使して知識を繋げながら育てていこうよ、というアプリだ。

Obsidianでは網羅的に知識を書こうと几帳面に書いていた。それはどちらかというと育てるのではなく収集する書き方だった。自分にまだ興味無いけれど知るべきだから書くといった、背伸びした使い方。

Obsidianで知識を管理していたということを思い出すと、

「もっと知識を勉強しないといけないな……」

「もっと学習して今まで書いた中途半端な部分を進めていかないといけないな……」

とか完璧主義的な収集癖が発動する。苦しくなる。

だけど、今は沢山使わなくてもいいやと思っている。自分に期待をかけるのを徐々に減らして行っている。それが多分自然で、自分にできるほんのちょっとをいつもやっていこうということ。

勉強のための文章たちが堅苦しくて窒息死してしまいそうだった。

こんな風に断片的な知識まで無理やり詰め込もうとしていた。意味のある繋がりではなくて、持たせられた仮のつながりというか。たとえばEthereumの標準規約に関しても、標準規約だから1から最後まで覚えようなんてことは私には無理だ。それをやろうとしていた文章で窮屈だった。

覚えたいじゃなくて覚えなきゃだったから窮屈だった。

そして文章もそうだ。ただただ情報を厳密に詰め込んだだけの文章。それは無駄だ。にじみ出る私があって、そういう言葉遣いが必要なんだ。一番最初から厳密に推敲して正確にやろうとすると、そのノートに対する親近感が皆無になってしまう。

私じゃなくなって窮屈だった。

「ちゃんとやらなきゃ。ちゃんと勉強して難しい覚えづらいところこそ覚えなきゃ。それができなきゃ生きてる価値がない。努力をしないと生きている資格がない」

堅苦しさとか努力しなきゃとか、大勢で押し寄せてくるんだけれど。私は彼らを頑張って遠ざけようとしている。彼らは地を這ってわらわらと押し寄せてくる。彼らは小さく黒い。時折眼光が鋭く光っている。彼らはだいたい最近どんどん小さくなってきたスマホのモバイルバッテリーぐらい小さい。そして生まれすぎた子猫ぐらいたくさんいる。

私は彼らから逃げる。恐れおののいて、壁に両手をつける。そのままへたり込んでしまった。なるべく考えないようにしている。

私は一生懸命彼らの口をふさいだり、彼らがいない部屋に行って息をする間もなくドアを閉めるわけだ。

まあでも、この子達がいるのはしかたないことだしいさせてあげるしかないんだって思う。この子達は私にとって大切だから生まれてきたはずなんだ。

努力しろと懸命に訴えてくる。

まあ、そういう窮屈さが知識を作るための文章を書こうと思うと生まれてくるんだった。

あれ、それで言いたいことはあっているのかな。ちょっと違う気がするな。知識のための文章の中でも少しだめなやり方をしていたということがある。複数のことがこんがらがってるな。

私が言いたいことって言うのは、知識のための文章は結構窮屈になりがちということなんだけど、それはみんなに当てはまることじゃないと思う。私特有のこと。他の人でもこういう風にやってしまう人はいると思う。

知識のため、って思うと何か完璧に学習しなきゃって思うんだ。そういうかっちりした静的な物をイメージしてしまう。これはObsidianのノートのやり方にも起因しているかも。全体のイメージからトップダウンで、細かく全てを書かなきゃって思ってたから。

入れるために書こうとすると、完璧が発動する

全てを書こうと思うと窮屈になる。そして、努力していない自分は死ぬべきだ君が発動する。

なんだろうな、今いい淀みを感じている。「言い終えてないんだよな〜〜」って私が言ってる。

「努力していない自分は死ぬべきだ。生きる価値がない」君に関して、まだ解明されていないエネルギーを感じているんだ。まあでもそれは良いか。

そう。入れようとすると完璧が発動する。全てを入れないといけない。すべてのことを学習しないといけないのだ。

一方出力することは時間がかかる。書くことは現実よりだ。行動よりだ。一方読むことは理想よりだ。意味よりだ。

昨日図書館に行った。5時間も本を読んだ!とても幸せな時間だった……。今まで感じたことがないぐらいリラックスした。本を読むだけじゃないんだな。私は本を読んだらそれを全て上手く活かしたいと思う。忘れるのが怖い。皆もそうだと思う。

あ、わかった。理想を現実にしようとするということなんだ。読書を全て書くことで現実にしようとすることは、理想と現実のギャップに苦しむということにほかならない。

読書するものはいくらか、9割ぐらい忘れるのが当たり前だということだ。

それを認められず全て書き出して勉強して覚えるんだって思ってたから苦しかった。そういうことだと思う。

理想は理想のままに、ただただ忘れるために本を読むことは気持ちいいかもしれない。薄めて生きよう。

たくさんできたな〜!って幸せなことがあると、それがプレッシャーになって駄目になる。今まで何度も繰り返してきた。理想が簡単に広がって現実に重なってしまう。だから私はこの夢見の馬の暴走をどうやって飼いならすかだ。この子はすぐに楽しくなって暴れまわる。そして自分にプレッシャーをかけて現実の期待として重くのしかかる。

文章を書くことに関してはある程度大丈夫だった。完璧に書こうとすることから距離をとったから。完璧の誘惑から逃れることを実践した。

そんな風に薄く生きよう。

「少しでも努力を辞めたらお前は死ぬべきなんだ。生きている価値はない。恥じながら苦しんで生きろ」

この馬は、昨日図書館から帰ってすぐに借りた本を読めなかった自分に対して呪いのように後ろからうめいていた。

ちょっとずつ呪いを受け入れていきたい。

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