自分を守るために退屈に思うのだ
会社の全体会議に参加しました。とても退屈でした。私にとって特に苦手な形骸化したものでした。予定と実際を発表して結果を評価するだけのもの。
「成果を挙げられたので、次回もこのまま行けるように頑張りたい」
「あまりうまくいかなかったので、部署内でのマインドの徹底から行いたい」
成果へのつながりの根拠が薄いところが問題なのですね。データや裏付けがない。一定の客観性の担保が必要です。精神論による定性評価が一番よくない。データ化できなかったとしても、良い定性評価がなにかあるのではないか。定性評価にもデータは導入できそうです。普段の気分の上下とか。
ただ、データの導入は異物混入です。単純に苦しい。異物を混入するほどの計画があるか?というとそれは疑わしい。とりあえず新しいことをやってみるという方針で私は動いてきました。新しいものの負担はどれだけ小さくても大きいのです。普段の生活とどのように接続するかが重要です。
ところで、伝えるように書くと返事を期待してしまってまだ苦しい。今書きながら苦しんでいます。まだ伝えるときに相手への重心が大きいようです。自分と相手とのコミュニケーションで、相手への重心が大きいのです。
なぜ退屈論で自分と他者の関係性が出てきたのか。おそらく、私の中で大きく繋がっていると思うのです。自我のこだわりと他者への慈しみのバランスが退屈という症状として表れている。
もしかしたらあなたもそういう現象に悩まされているのかもしれないですね。自分と他者、その結果としての退屈感について書いてみようと思います。
我の強さ
まず、会社の計画と全体会議の退屈さについて書いてみたい。そこに私の退屈の根幹につながるものがある気がしています。
会社では形骸化した成果発表がなされていました。これは私にとってもっとも苦痛なものの一つです。意味のないと強く思っていることに無理やり時間を使わされること。
時間を使わなければいけないことは受容する必要があります。ただ、どうして受容できなかったのかは考察する価値がある。
私の中で、何も考えていない無意味に思える成果発表に時間を使わせるということは暴力に等しい。時間が一番大切で貴重であるというのは、誰もが同意してくれることだと思います。
今まで時間を無駄にしてきた人を沢山見てきた。母親の口癖は「あんたの年齢だったら私はもっとできたんだけど」でした。そういう影響が色濃く出ている。墨汁が広がっている。
私は全体会議の時間を無為に過ごすことは受容できませんでした。だから今できる限りそこから学習できないか必死に文章を書いてみている。書くことで何かを得ようと欲張っている。
私は何かを得ました。全体会議によって、何か考えたいことを得ました。
それが自分と他者のバランスです。この自分と他者のバランスというのは、私の中で大きな問題となっている。他者には優しくしたい。その一方で自我が強く頑固である。その間の強い葛藤が人生で解く課題となっている。
いっときは、自我の強さを目の敵にして徹底的に謙虚に振る舞うことで、過剰に行動を行って自分の性質を打ち消そうとしてきた。
なるべく猫をかぶること。お酒を飲まないこと。自分のことを話さず相手のことばかり傾聴することを良しとし、自分のことを話そうとしたり自分の感情が出てきたら自分を大きく罰すること。自分が傷ついたことを抑圧すること。そうやってできるだけ自分の我の強さを押し殺そうとしてきた。過剰に保証しようとしてきた。
またあるときは、マゾ的にどうにか他者のことを自分事としてできないかと画策してきた。リフレームしてどうにか他者のためのことを利己的にできないかと考えた。それも徒労に終わりました。
結局のところ、自分を認めることでしか一歩を進めないわけです。
私は我が強い。
結界を張る必要がある
私は大いに退屈を感じる時があります。それも頻繁にあります。仕事を始めるときなんかはそうです。この前の全体会議のときもそうでした。ちょっと具体をもって想像していきたい。
「今週は全体会議です」
その言葉を聞いた瞬間に、大きな苦しみを感じた。木曜日に会議があるとのことだった。ここで、私はその事実を受け入れようとふわふわした状態で会議がある状態に自分の自我をヨギボーのように変形させた。
会議があるということを否認して、「今週の持久走は絶対にやりたくない」と抵抗するほど、3週間に渡る苦しみの連鎖に繋がっていることを経験で知っているから。
だけれども、それは全体会議を受け入れたくない証拠である。全体会議をするぐらいだったら、一人で実装していたい。だってそれによって何の得るものもないからだ。
「社会でやっていくためには必要なことなんだ」
そんなくだらない言葉で自分のことを見えなくさせるのは無意味だ、と言っておこう。
一人でやっていたいのだ。なるべく他人と関わりたくない。素直な感情だ。
一人でやることに対してこだわりがあるのだろうか。何かがある。そうだ、それで思い出すのは、「自分一人で道具をつくりたい」ということだった。私のプログラミングの初期衝動は、「勉強をする道具を作りたい」ということだった。音読の回数をカウントするようなちいさなものでも、自分色に染めたかった。
カスタマイズしたいわけではない。自分好みに動いてほしいわけではない。自分の道具を使いたいのだ。正論はわかりつつ、正直な思いとして全て自分の色で道具を使いたいのである。文章を書くときもそれが出ていると思う。
小さく閉じこもっていたい。自分の城を作りたい。何か侵害されたように感じているということか?それはわからない。何か侵害された経験があるから、自分の道具で染めたいと思うのは論理の飛躍な気がする。
うーん、何かここについて書くことはあるだろうか?プログラミングで一番濃くそれが出てくることに何か色はあるのだろうか?
一旦それは置いておいて、全体会議があった時のことに戻ってみよう。
会議室に入る。会議室は壁一面白く塗られていたが地面は灰色や紺色のカーペットで覆われていて安定感があった。広さと安心感が一体となっていたような空間で、少し安堵した。
会議が始まった。私はパソコンを開きメモ帳を開いた。自分がどのようなことに対して反感を感じたか、また感心したかをメモするために。自分への回帰の試行・思考をしていた。
率直にはぁ?と思うことが頻繁にあった。
会社の理念の紹介
会社の理念は全くもって実現されていないと言うか、最も形骸化しているように思われるものだった。そもそも会社に思い入れを持っている社員はほとんどいないように思っていて、それなのに理念を強制する態度に大きな反感を覚えた。父親が私に「お前は努力していると思っているわけがない。お前は性根からサボっているクズだ」というようなことを言われたことを思い起こされるからだ。
こういう、会社が何も行動せずに社員に対して理念に従うことを強制することが暴力に感じられるのだった。「規範だから、会社に働いている一員としてそう思うことが当然である」という暴力だと感じているらしかった。
もしかしたら、自分の中にある会社に対する大きな反感はこの考え方に来ているかもしれない。
社長の理念
この理念を考えた後に書いて置かなければいけないと感じるのは社長の考え方である。
私は以前社長と一対一で案件を回したことがある。そのときに社長と考え方で対立した事があった。
社長は「自分が言ったことは全て正しいのだから、あなたは依頼された仕事に対して成果を提出すれば良い」という考え方だった。
それは旧来の考え方ではないか?私は社長が提示する成果物では後々保守性に何があると考えた。
当時まだ私は伝え方に関して未熟でもっと良い話し方があったと思う。社長は夢見がちで、自分のやりたいことに口を出されることを最も嫌う人だった。私はおそらく、自分が傷つけられたと感じ口を出した。
自分に無意味なことを押し付ける父親的な存在として、私の中の傷が反応した。
ああ、父親のあのイメージが私の中に巣食っているのか。これは、「不純に量をやる」から一定して根付いているものだった。そう言えばそうだ。
私は今まで、無意味なことを押し付け感情的に傷つける「父親像」と徹底的に対峙してきたのだ。
だから、私は安全な領域を作る必要がある。どうにかして自分を安全であると安心させてあげる。常に戦闘態勢だった。自分を出して受け入れられる瞬間なんて、一生来ないと思いこんできた。
最終的にまたここに来た。自分を受け入れること。自分に結界を張ること。
カービィのぬいぐるみを買った。この子と一緒に、私の結界を作ってあげよう。
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