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舞台少女よ、舵を取れ~『遙かなるエルドラド』小論~

0.はじめに

『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』。それは、第100回聖翔祭に囚われた舞台少女たちを、12話のアニメに囚われた我々視聴者を、卒業させる物語。

その道すがらで舞台少女たちは、将来に迷い、不安を吐露し、葛藤する。そうした悩みを最も明示的に描いた場面の一つが、『遙かなるエルドラド』のシーンであろう。実際に仮設舞台の上で演じる愛城華恋、星見純那はもちろん、舞台の外にいながら劇中の台詞を口にする大場なな、神楽ひかりの現状も描き出す。本稿では、劇場版の中でもキーとなるこのシーンの読解を試みる。

1.前提

『遙かなるエルドラド』に関する説明は、作品内の解説を見た方が早いであろう。星光館で真矢が開くパンフレットには、以下のように記されている。(潰れて判読不可能だった文字は〇で表記)

1989年の初演より、新国立第一歌劇団の代表作となったミュージカル「遙かなるエルドラド」。時代ごとに形を変えて上演されてきた不朽の名作が最新版としていよいよ幕を上げる。
「遙かなるエルドラド」は、1982年より刊行された白〇〇原作の〇〇少女漫画。まだ見ぬ黄金郷・エルドラドを目指すサルバトーレ・グーリエの野望に満ちた生き様に、彼に裏切られ、その航路を追跡するアレハンドロの執着や、二人の〇〇の間で揺れる王女イザベラの愛憎が絡み合う一大海洋歴史ロマン。
時を超えて人々を魅了するダークヒーロー・サルバトーレに冴草千弦が新たな息吹を吹き込む今作、ライバル役のアレハンドロに深見れいん、美しき王女イザベラを世奈歌純が演じ、レナード〇〇の重厚な名曲たちが大海原に響き渡る。プロジェクションマッピングによる新しい海の表現と、大迫力の海戦シーンにも注目していただきたい。

またその隣のページには、双葉が「空とぶんだよな、サルバトーレが!」と言及したであろうシーンの写真と共に、以下の文章が綴られる。

父を追い落とした政敵を抹殺し、父が成し遂げられなかった「エルドラド発見の夢」を叶えるために、牙を隠してイスパニア提督へと上りつめたサルバトーレ。力を手に入れたサルバトーレは、女王イザベラを抱いた翌朝、彼女の名を冠した「レイナ・イザベラ号」を強奪し、彼を慕う部下たちと共にイスパニアを出奔。ヴェネツィアで復讐を果たし、遙かなるエルドラドに向かう旅に出航する。

そして、この舞台をデモ的に上演したのは、件のシーンだ。1年生に囲まれる中で、華恋と純那が上記のシーンを演じて見せる。

2.台詞の分析

聖翔での上演で演じているのは、アレハンドロ役の華恋とサルバトーレ役の純那だ。そしてアレハンドロの台詞であろう言葉をななが、サルバトーレの台詞であろう言葉をひかりが舞台の外で口ずさんでいる。以下にその台詞を引用する。(文字起こし・番号はともに筆者による。)

①純「我々は神の舞台に立つ道化。一度きりの舞台なら、思うがままに演じるだけさ!」
②(ひかり「We are jesters of heaven's stage. If I get just one performance, I will play as I please.」)
③華「サルバトーレ!君は捨てようと言うのか?!我らが女王陛下と、この祖国イスパニアを!!」
④純「すまないアレハンドラ。友よ、私は行かねばならないんだ、あの大海原へ!!」
⑤(ひかり「I'm sorry my friend. I'm at set on my voyage to the open sea.」)

⑥純「だから、止めないでくれ!!(剣を向ける)」
⑦華「(迫りながら)ならば、僕は何を目指せばいい??君を追って、船に乗った!僕はこれから、何を目指せば?!なぜ、、、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、行ってしまうのだ……」
⑧なな「友よ」

劇の筋書き上は華恋と純那の対話の形式になっているが、この後の展開を考えると、華恋とひかり・ななと純那がそれぞれ対話していると解釈するのが良いだろう。以下、そのような視座のもと台詞を読解する。

2-1.華恋とひかり~一方的な突き放し

華恋とひかりの対話だと捉えると、以下のようになる。

②ひかり「We are jesters of heaven's stage. If I get just one performance, I will play as I please.」
③華「サルバトーレ!君は捨てようと言うのか?!我らが女王陛下と、この祖国イスパニアを!!」
⑤ひかり「I'm sorry my friend. I'm at set on my voyage to the open sea.」
⑦華「(迫りながら)ならば、僕は何を目指せばいい??君を追って、船に乗った!僕はこれから、何を目指せば?!なぜ、、、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、行ってしまうのだ……」

こうしてみると、ひかりの挙動は何も変わってない。「このままではいけない」と思ってか、華恋から一方的に身を離す。その理由の説明は不十分で、華恋の問いかけには何も答えない。アニメ版のひかりとそっくりだ。あるいは、以下の記事にみられる「神楽ひかり版wi(l)d-screen baroque」をわかりやすく提示しているともいえるのかもしれない。

ひかりがひかりなら、華恋も華恋だ。ひかりと一緒に歩いてきたところから突然突き放されて、行くべき道を迷っている様子がありありと伝わってくる。アニメ8話に描かれた、滑り台の上で号泣するシーンさえ彷彿とさせる。

以上のように華恋とひかりの対話は、ひかりによる一方的な突き放しとそれに対する華恋の困惑という形で解釈できるであろう。

2-2.ななと純那~必死な自己正当化

同様に、ななと純那の対話だと捉えて、台詞を引用してみる。

①純「我々は神の舞台に立つ道化。一度きりの舞台なら、思うがままに演じるだけさ!」
④純「すまないアレハンドラ。友よ、私は行かねばならないんだ、あの大海原へ!!」
⑥純「だから、止めないでくれ!!(剣を向ける)」
⑧なな「友よ」

これを見ると、「対話」と呼べるのかも怪しくなってくる。純那の方は、「大海原」へと向かう理由を重ねて必死に自己正当化しようとしているように見える。サルバトーレという「他人」の言葉が、舞台の中でアイロニックに響く。そしてそれに対してななは失望し「友よ」とつぶやくことしかできないでいる。こうした対話は、「狩りのレヴュー」(前半)の描写にぴったり合致する。

2-3.対応する台詞を見比べてみる

純那とひかりの口にする台詞は、ほとんど対応関係にあるが、ニュアンスの微妙な違いがみられる。ここではそれらの違いを「違う台詞」として扱い、二人の心的状態の、あるいは会話の文脈の違いによるものであることを論じる。(簡便のため、純那ーなな間の言及にはA、華恋ーひかり間の言及にはBを付す。)

まず①と②について。①の「神の舞台」に相当する②の表現は、「god's stage」ではなく「heaven's stage」である。純那が「神」を持ち出すのはおそらく、神による決定論を念頭に置いたうえで、自らの行動の不自然さを正当化しようとしているからであろう。「私の不自然な行為も神によって決められているものだから仕方がないのだ、そうしなければならない」(A)というニュアンスが感じられる。

一方でひかりが「heaven」という表現を持ち出すのは、自らの「自由」を謳歌せんとしているからであろう。「楽園の舞台にいるのだから、何をするにも私の勝手だ」というニュアンスだ(B)。

こうしたニュアンスの違いは、同じセリフの後半にも反映されている。純那は「演じるだけさ!」と力強く述べる(A)のに対し、ひかりは「I will play」と冷静に述べる(B)。決定論的な純那の立場と自由主義的なひかりの立場の対照がはっきりわかるであろう。

また、④と⑤にもニュアンスの違いがみられる。純那は「行かなければならないんだ」と義務論的な主張をしている(A)のに対し、ひかりは「I'm at set on my voyage」と淡白に事実を述べる物言いをしている(B)。これも、純那とひかりの立場の違いを表していると言えよう。何かに迫られて「航海」に出させられていると主張する純那(A)と、既に自らの「したい」ように振る舞うひかり(B)といった構図だ。したがって、純那にはななに向かって「だから、止めないでくれ!」と半ば暴力的に説き伏せる必要がある(A)のに対し、「突き放す」ことさえできればよいひかりには続く言葉はいらない(B)のである。

3.「役者」の四象限

次に論じるのは、四者の「役柄」である。華恋、純那、ひかり、なながいかなる立ち位置にいるのか、そこから彼女らは何を思い何をしようとしているのかを、二つのパラメータから探る。

四者の立ち位置は、おおむね以下の図のように整理されるであろう。一つの軸にサルバトーレかアレハンドロか、という区別があり、もう一方の軸に演じているか演じていないかという区別がある。以下ではこの二つの軸に分けて、それが意味するところの読解を試みる。

3-1.サルバトーレとアレハンドロ

サルバトーレとアレハンドロの違いは、端的に言えば「逃げる者と追う者」の違いであろう。『遙かなるエルドラド』の中でサルバトーレは、一夜を共にした女王イザベルと「祖国」イスパニアを捨て、「大海原」へと旅に出る。しかし、「出奔」と表現されていることからもわかるように、その内実は「逃げる」行為であった。これを舞台少女たちの文脈に引き付けて解釈するならば、「深い関係を持った相手や慣れ親しんだ舞台を捨て、全く違う地へ逃げる」となる。この全く違う地というのは、純那にとっては草稲田大学であったし、ひかりにとってはロンドンであった。それは本当に「新天地」を求めていたのか、「怖かった」からではないのか、「『今は』という言い訳」ではなかったのか。

対してアレハンドロは、自らを裏切り舞台から逃げたアレハンドロを追いかける。ななは「熟れて落ちゆく運命なら、今君に、美しい最期を」といって逃げさせまいとする。それに相当するような華恋の直接的な描写は無いが、ひかりの待つ東京タワーに上ってくるシーンはそれを示唆しているといえるであろう。あるいは、突然消え去ったひかりを懸命に探し求めるアニメ11話の華恋がそれをよく表しているのかもしれない。

3-2.演じている者といない者

もう一つの軸が「演じている者と演じていない者」である。華恋と純那が舞台の上で演じている、あるいは衆目にさらされているのに対し、ひかりとななは独りで台詞をつぶやくのみである。この違いは、突き詰めれば「舞台少女になった瞬間」に由来すると考えられる。

華恋が舞台少女になったのは、5歳の時、ひかりに連れられて行った舞台に魅せられたときである。純那も時期は違えど同様で、舞台に魅せられた瞬間に舞台女優の道を志したことが言及されている。

対してひかりは、華恋に「輝くスタァに、二人で」と言われた瞬間舞台少女となった。それ以前にも舞台には触れているはずだが、その後の彼女を突き動かしてきたものは華恋との約束であろう。またななが舞台少女となったのは、第99回聖翔祭の後夜祭であると最も明示的に言及されている。協働により眩しい舞台を創りだした同級生との日々に、魅せられたのである。

これらのことを踏まえると、華恋や純那が舞台に立つ理由は自己完結的であるのに対し、ひかりやななが舞台に立つ理由は他との関係において成り立っている。今この瞬間にそれが変わっていたとしても、もともとはそうであったはずである。したがって舞台そのものへの、あるいは舞台に立つことに対する執着は、華恋や純那の方がななやひかりよりも強いといえる。そうした差異が、二人を舞台に上がらせたのであろう。

以上の議論を踏まえれば、最も将来に悩んでいる華恋が、最も舞台に上がりたがっている、と言えはしないか。舞台から逃げようとする友を執念深く追いかける姿、そしてキラめく舞台に魅せられて内的な何かに突き動かされる姿は、愛城華恋にとって「舞台を降りる」選択肢はないのだと、雄弁に物語っている。

4.二人の「登場人物」

ここまで論じてきたサルバトーレとアレハンドロ。ここではこの二人の性格や名前の語源について考察し、4人の舞台少女に共通してみられる特徴について論じる。

まずは二人の性格について。あらすじや説明を見れば明らかなように、サルバトーレは野心的で豪胆な性格である。復讐のためスペインに取り入ったり、復讐の前夜に女王と関係を持ったり、船を強奪して大海原へと飛び出したりと、まさに「破天荒」という言葉がお似合いだ。一方のアレハンドロは、忠誠心の強い人物として描かれる。これは、「我らが女王陛下」と「祖国イスパニア」に対するサルバトーレの裏切りを嘆く台詞や、裏切り逃げたサルバトーレを執念深く追いかける姿に象徴的である。野心的なサルバトーレと従順なアレハンドロが綺麗に対を為しているのがわかるであろう。

次に、彼らの名前を調べてみる、「サルバトーレ」は、「救世主」という意味のイタリア語圏の人名で、キリストを暗示している。対して「アレハンドロ」は、アレクサンドロスに由来するスペイン語圏の人名である。「アレクサンドロス」の名を持つ人物で最も有名なのは、紀元前に大帝国を築き「ヘレニズム」を生み出したアレクサンドロス大王であろう。

こうしてみると、名が体を表していないことに気づく。柔和で包容力のあるモチーフとして描かれることの多いキリストを暗示するサルバトーレは、実際には「破天荒」を擬人化したようなキャラクターで描かれている。また一方で、その暴力性でもって広大な領域を支配したアレクサンドロスを語源とするアレハンドロは、忠誠心の強い人物として描かれている。

こうした名と実情のずれは、演じる、あるいは台詞を口ずさむ舞台少女4人が4人とも、内実を伴っていないことを示唆している。「キリスト」を演じて見せるななも実際にはキリストではないといったことは前の記事で言及した通りであるし、ひかりがななと同じようなことをしようとしたという議論を踏まえれば、同様の言及がひかりにもあてはまるであろう。純那の「野心」が実際には「逃げ」であったことは周知のとおりだし、華恋にとって、「これからどうすれば」と悩みつつも舞台から降りる選択肢はないことは先に述べた通りだ。

こうして、wi(l)d-screen baroqueに向けての前提が準備される。舞台少女らの迷いや矛盾を1つのシーンに集約して描き出し、続くレヴューでの解決を迫るのだ。

5.おわりに

以上が、私の現段階での『遙かなるエルドラド』読解である。「このシーンは、舞台少女それぞれの葛藤や悩みを描いているのだ」という代わり映えしないシーンの位置づけに終始してしまったが、何か新たな視点が開かれることを願うばかりである。最後に、語るに漏れたこまごまとしたことを指摘して終わりとしたい。

①(他の方々も指摘してくださっているが)舞台における上手と下手の意味づけ。
②「仮設舞台」という空間の特殊性。「現実」と「舞台」の境界。
③アニメ8話のひかりーななの(物理的)構図が『遙かなるエルドラド』の華恋ー純那の構図に一致している。
④華恋は「舞台の上である」ことを忘れるくらい役に没頭している。一方純那は華恋の気迫に押されて「星見純那」になってしまっている。
⑤サルバトーレの下敷きは多分コロンブス。南米の植民地化を中心とした史実との関係。
⑥演じられているのは朝のシーン。「夜明け前のほんのひと時」が終わろうとしていることを示してる。

(以上の論点に関して、あるいは記事全体に関して、思うところや新たな着想などあれば遠慮なく筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)


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