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想像/創造/奏像される『エルドラド』〜朗読劇『遙かなるエルドラド』感想〜

2023年12月17日から18日にかけて公演された朗読劇『遙かなるエルドラド』。本稿は、その感想を記すとともに、そこから考えたことをまとめる。

1. 微妙だった

率直に言えば、あまり刺さらなかった。し、加えて『劇場版』で込められていたメッセージのようなものは反映されていなかったような気がする。

簡単に言えば、ストーリーが単調に感じた。少年と少年が約束して、青年になって裏切って、恋愛の中で女性がそれに巻き込まれていく。こうした物語の筋は非常にありきたりなように思われた。もっとも重大でわかりやすいポイントは、そこでの男性と女性の表象の仕方であろう。イギリスの批評家:イヴ・セジウィックは『男同士の絆』の中で、ルネ・ジラールの「性愛の三角形」を引きながら、「ホモソーシャル」を特徴づける。

ジラールは、性愛の三角形を積極的に構成するふたりのライヴァルに注目し、そのライヴァル関係が形成する権力の演算法を、主要なヨーロッパ小説の読解を通して明らかにした。(中略)彼によると、「ライヴァル意識」と「愛」は異なる経験であっても、同程度に強く多くの点で等価だと言うのだ。(中略)人が愛の対象を選ぶ際、まず決め手になるのはその対象の資質ではなく、ライヴァルがその対象を既に選択しているかどうかである、と。要するに、ライヴァル同士の絆の方がずっと強固であり行為と選択を決定する、と言うのが彼の見解のようだ。しかも、(中略)性愛の三角形を構成するのはほぼ例外なく、ひとりの女性をめぐる二人の男性の競争である。

イブ・セジウィック、上原早苗・亀澤美由紀訳『男同士の絆』p. 32

男性支配社会では、男性の(同性愛を含む)ホモソーシャルな欲望と家父長制の力を維持・譲渡する構造との間に常に特殊な関係がーー潜在的に力を持ちうる、独特な共生関係がーー存在する

前掲書、p.38

こうしたセジウィックの議論は、「ミソジニーと同性愛の否定によって、男性同士の友情関係が成立している」という議論として引き継がれている。これを踏まえると、本作にもその要素がふんだんに織り込まれているといえるであろう。「ミソジニー」と言うと捉えにくい面もあるが、それはヴァージニア・ウルフの以下の記述を踏まえると鮮明になる。

わたしはこれまで読んできた書物を思い返して、二人の女性が友人どうしとして書いてあるものはなかったかと考えました。しかしほとんど例外なく、彼女らは男たちと関連づけられて描かれています。考えてみれば不思議なことですが、ジェイン・オースティンの時代まで、名高い女性といえば男性の描いたもので、しかも男性との関係によってのみ描かれていたものでした。それは女性の人生からすればほんの一部に過ぎませんーーその一部にしたところで、異性という黒眼鏡ないし色眼鏡をかけて見ていたのでは、そのまたごくわずかな一部しかわかりません

ヴァージニア・ウルフ、片山亜紀訳『自分一人の部屋』p. 145

カルメンシータは死ぬ必要があったのか。イザベルの求めた「自由」とはサルバトーレと一緒になることだったのか。女性たちを犠牲にした男性たちは、なんだかんだ満足していそうではないか。そうした問いを、ウルフは投げかける。これらが頭にちらついて、ストーリーを評価する気にはなれなかった。

2. 作中での位置付け

とはいえ、プロジェクトの中の話なのだから、作中世界の中に位置付けなければならない。以下では、戯曲『スタァライト』と『劇場版』それぞれとの関連を(再)解釈する。

まず、直接的な引用がなされている『劇場版』から。例のシーン(「我々は〜征ってしまうのだ」)におけるサルバトーレ(純那/ひかり)とアレハンドロ(華恋/なな)を見てみると、アレハンドロの方は現状に対する動転と喪失の絶望の最中にあるという点で一致しているだろうと考えられる。一方でサルバトーレの方は、『劇場版』シーンにおける純那/ひかりは「逃亡」的な欲求が強く現れていたのに対し、朗読劇におけるサルバトーレは「野心」が前面に出ていた。両者の違いは、作品内での影響関係を踏まえて考察すべきところであろう。

同じシーンについてもう一つ比較をすることがあるとすれば、「なぜ」の回数であろう。『劇場版』のシーンにおいては6回繰り返されていたのに対し、朗読劇においては3回しかなかった。『劇場版』において「6回」が有意味な繰り返しであったとするならば(以下の記事を参照)、朗読劇においてはいかなる意味を見出せるだろうか。

引用した記事では6回が「レヴュースタァライトを演じ切ることを示唆している」とされているが、より広く、「関係にケリをつける」ことを示唆していると考えると、『劇場版』での華恋のアレハンドロはサルバトーレとの関係にケリがついたことを直観していると考えられる。一方で、朗読劇においては、アレハンドロの発する「なぜ」の回数は4回である(最後のセリフの中で繰り返されたのが3回、裏切りの際に1回)。これを「狩りのレヴュー」や「魂のレヴュー」、「最後のセリフ」における構造と並べてみると、4回の繰り返しによって場面が大きく転換していることがわかる。つまり、『劇場版』におけるアレハンドロとは異なり、朗読劇においては「レヴューはまだ終わっていない」ことが、そして「これを機に転換される」ことが、示唆されているのではないか。

戯曲『スタァライト』との関連では、いうまでもなく物語構造がよく似ている。出会い、約束し、別れ、再会し、また別れる。二者の出会いと別れの間には、星や黄金が媒介となっている。そして、離れ離れになってしまうというラストをみると、華恋が「書き換え」を行った第100回ではなく、第99回聖翔祭の『スタァライト』を思わせる。

ここに、『劇場版』とのさらなる結節点を見出せる。ひかりと華恋を除く7人は新国劇の『遙かなるエルドラド』の観劇に向かっていた。そこで予定されていた筋書きを朗読劇と同じものだと仮定するなら、そしてそれと戯曲『スタァライト』の同形性を見出すとすれば、第99回の『スタァライト』に心躍らせていたことにはなるまいか。結末を書き換えてより洗練させた第100回を演じ終えた後だというのに。

そう考えると、ななが鼻白むのも納得である。「もう死んでる」と宣告し、『皆殺しのレビュー』を始めたのも納得である。そこに書き換えの、再生産への欲求が、覚悟がなかったのだから。

3. 「そうぞう」される『エルドラド』

このことを裏から考えると、本作は「書き換えられるもの」としての役割を担っているのではないかと感じられる。第99回星翔祭の『スタァライト』が「再生産」されたように、ゲーム版で「再生産」されるものとしての役割を担っていたのではないか。サルバトーレとアレハンドロの「約束」と「運命」を再解釈して、塔に幽閉されたクレールを救い出す。その前段階としての『遙かなるエルドラド』だったのではないか。

そこでは、見たこともない黄金郷が想像される。しかし想像し夢を追い求めるばかりではなく、それを実際に創造しなければならない。舞台創造科と手を組んで、一つの音楽を奏でるように筋書きを像(かたど)らなければならない。そうした行為の物語としてゲーム『舞台奏像劇 遙かなるエルドラド』が、編まれることを、そして今回の朗読劇がその下敷きとして「書き換えられる」ものになっていることを、大いに期待したい。


(記事に関して、思うところや新たな着想などあれば遠慮なく筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

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