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舞台創造科による「再演」と「再生産」〜〜『舞台奏像劇 遙かなるエルドラド』感想〜〜

本稿では、『少女☆歌劇レヴュースタァライト 舞台奏像劇遙かなるエルドラド』について考えたこと、感じたことを綴る。

1. ななによる「再生産」と舞台創造科

まず、個別のストーリーに着目すると、『劇場版』を踏まえた「その後」の物語として、良い仕上がりだったように思う。より具体的に言えば、舞台に立つ覚悟を決めさせ自覚的に「スタートライン」に立った『劇場版』を踏まえて、どのようにして舞台に立っていくかという「一歩目」の物語になっていただろう。すべてのルートについて一貫して、「目の前の一つ一つの舞台に、そして自らの役に正面から向き合って全力投球することで、再生産をし続ける=生まれ変わり続ける」ということが大きな指針となっていただろう。

例えば「純那&華恋ルート」では、純那による「復讐」の宣言によって一人で舞台に立つ実感を得た華恋と、折れそうになっていたところを「勝手に沈ませない」と華恋に鼓舞され立ち上がった純那、という構図の中で、「舞台女優」として成長していく様子が描かれていた。どのルートに関しても、各人が各人として独自の成長を遂げていて、好ましいものであった。

一方で、より広い視点をとってみると、本作は、TV版におけるなながそうしていたように、B組舞台創造科が「再演/ループ/輪舞」しているような性格を持っているように思われる。少なくとも2回以上プレイして「全てわかっているアレハンドロ」に辿り着かなければ「グランドエンディング」には達しないというゲームシステムが、そのような疑いを強く喚起している。また、冒頭のオーディションのシーンや指輪の交換に対するコメントのシーンを参照するとわかるように、演者が重要だと解釈しているポイントが大きく異なっているにも関わらず、演者のあり方を踏まえて変更されたはずの演出がほとんど変わっていないことも、「再演」を想起させる。もちろんセリフに変わっているポイントは見られるものの、(「まひる&ななルート」以外では)大きな筋書きはほとんど変わっていない。

これらのこととエンディングのバリエーション、すなわち眞井と雨宮が「こうではない可能性」を示唆する通常エンディングと非常に前向きに「これから」のことが話されるグランドエンディングとの違いを踏まえると、「純那&華恋ルート」「香子&真矢ルート」「クロディーヌ&双葉ルート」において満足できなかった眞井と雨宮が、「再演」を行なったと考えるのが自然であろう。第99回星翔祭までの一年間を繰り返したななのように

その「再演」の終結の方に目をやってみると、本作において「再演」を終わらせたのは、大場ななであると言えるだろう。ひかりという外部からの刺激を受けて新たな『スタァライト』を発見した華恋のように、ジュディという外部からの刺激を受けて新たな『遙かなるエルドラド』を発見したのである。

そしてその過程には、「再生産」の本懐があると考えることができる。新たな『遙かなるエルドラド』には雨宮も同時に辿り着いていたわけであるが、演者たちの意気込みを受けて眞井が脚本の一新を提案した他の3ルートとは異なり、雨宮による変更の提案は物語とななの演技を読み、考え続けることで生まれた。ここにも、全訳による精読によって新たな『スタァライト』を発見したTV版の華恋との共通性が感じられる。このことは以下の両記事に詳しい。

雨宮となながそれぞれ独立に、自力で新たな『遙かなるエルドラド』に辿り着いたということ、あるいは他の3ルートのように演者の意気込みに当てられた演出の一新では不十分であったということから示唆されるのは、「A組俳優育成科に比してB組舞台創造科が二次的な存在であるわけではない」と言うことである。舞台創造科は、演者のキラめきに目を焼かれる存在ではなく、演者との緊張関係を孕みながら、ともに舞台を作っていく存在なのである。

そして同時に浮き彫りになるのは、俳優育成科の側も脚本を作り出すことと無関係ではいられないということである。他の3ルートでの演者は「合宿」帰りのシーンにおいて一新された台本に対し「おおおおおおお〜〜〜!」といった反応をするのに対し、まひるとななは黙って食い入るように台本に目を凝らす。こうした対比は、演者にとっても、テクストは与えられ消費されるものではなく、検討され批評されるものであることを示している。

このような、「再演と、再生産によるそれからの脱出」という枠組みはTV版と全く同じであるように思われる。しかし一方で、TV版と決定的に異なるところがある。「これが終わりではない」ことを見据えている点である。第100回聖翔祭の後、卒業を控えた華恋たちはこれからの身の振り方に戸惑うことになるが、本作においてはそうではない。これが「一歩目」であることを自覚し、「二歩目」「三歩目」とこれからも「再生産」の営みを続けていく覚悟を決めている。そのため、劇場版に描かれたような行き詰まりを見せることはないだろう。

2. 「再生産」された『遙かなるエルドラド』(?)

上記のような「再生産」は、最後に披露される『遙かなるエルドラド』にも少なからず反映されているだろう。「純那&華恋ルート」「香子&真矢ルート」「クロディーヌ&双葉ルート」における脚本においては、「主役」と「脇役」とのコントラストがはっきりしており、「脇役」が「主役」のための装置であるかのように扱われているような感を受けた。特にイサベルやカルメンシータについては、朗読劇東京公演の感想を記した以下の記事に詳しい。

特に「クロディーヌ&双葉ルート」のイサベルについて、サルバトーレへの恋心(的なもの)のみを理由にアレハンドロの船に密かに乗り込むことは考えにくく、その後の「サルバトーレと共に征く」ことにアレハンドロが錯乱する展開のために(舞台の展開のために)利用されたような印象を受ける。また他の2ルートにおいても、イサベルが客体としてのみ描写されているような印象は否めない。

一方で、「まひる&ななルート」の脚本は、裏切りのシーンにおける「全部わかっているアレハンドロ」独白を入れ、それを見たイサベルが「私も」とサルバトーレを追うことを決意した、という形である程度の説得力が付加されている。さらに、その後の「サルバトーレと共に征く」ことにアレハンドロが錯乱するシーンでは、むしろ「サルバトーレを奪われる」ことに対しての絶望であり、イサベルを客体としてのみ描くような典型的な描き方とは距離を取っているように感じられる。

イサベルだけでなく、カルメンシータについても自殺の描写が削られ、パブロもアレハンドロの船員として再登場するなど、他3ルートの脚本よりもある程度「脇役」の生を疎かにしないような方略が取られていると言えるだろう。

このことは、脚本におけるななの影響として捉えることができるかもしれない。TV版では退学した2人に思いを馳せる描写があるし、本作においてもまひるによって「私たち」の足元に転がる「みんな」の屍について示唆されるている。上記のような「脇役」を(比較的)大事にすることは、ななによる光が当てられなかった者たちへの慈愛と考えることもできるだろう。

3. 疑問が残る点

とはいえ、「まひる&ななルート」においても「主役」と「脇役」の間には非常にはっきりと区分はあるし、それによる扱いの差も存在している。このことは、登場人物一人一人を丁寧に描き切ってきた本作の特徴を考えるとすこじばかり不満に感じるところもある。これは劇中劇だけではなく、本編のシナリオについても同様のことが言える。各ルートの主役になっている2人にフォーカスが当たるあまり、それ以外は背景の舞台装置的な役割を担わされているのである。もちろん、「群像劇」を脱し、「それぞれが主役の物語」になった、と好意的に捉えることも可能かもしれないが、「群像劇」として多数の登場人物の間のダイナミクスを描きつつ、同時に九人全員を主人公として「ケリをつける」各人の物語も描いた『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』という名作に比べると、見劣りしてしまう、というのが正直なところである。もちろん、ノベルゲームというフォーマット(=映像表現ができる幅が少ない制約)の中で、などのしょうがない点もあると思うが。

また、いくつか作り込みの甘さが感じられたところもあった。まずそれを感じたのは、双葉のオーディションである。双葉はサルバトーレ役でオーディションを受けたにも関わらず、アレハンドロ役に決まっている。もちろん実際に受けた役と異なる役に決まることはあるものの、「全員甲乙つけ難い」という前提が提示される舞台創造科チーフ会議においても双葉がサルバトーレ役で推されていることを考えると、(意図的であれば)説明ができるような描写が必要であったように思う。

まひるの演技の描き方にも、大きな疑問が残る。「競演のレヴュー」がよく表すように、まひるは自らの「本音」と「演技」を上手く折衷することで、真に迫るような演技をする人物として描かれてきた(詳しくは、以下の記事も参照)。

したがって、温かみのある役に対してはとことん温かく、逆に冷酷な薬に対しては実に非情な演技ができる点がまひるの演技の強みであると考えられる。実際、舞台創造科チーフ会議においても「常に厚い一面と、冷酷非道な夜の顔をばっちし演じ分けてた」「すっっっごい朗らかな笑顔から一転しての、アレハンドロへの殺意!」と評されている。にも関わらず華恋に「朗らかな舞台になる」と評されたり、ジュディに「暗い運命を背負った役を演じていても、どこかに希望を、暖かさを、明るさを感じさせる」と評されたりしている。こうした「暖かさ・朗らかさ」をまひるの「本質」として強調することは、彼女の持つ抜群のコントロールに対して不誠実な言及の仕方であるだろう。

4.終わりに

以上を加味して、全体的には「劇場版には及ばないが満足できる作品」であったように思う。また、グランドエンディングのアニメーションが非常に素晴らしい出来であったことも踏まえると、総合的に良作であったと言えると考えている。しかし一方で、疑問に残る点も複数あった。(要求が高いことを承知の上で、)『劇場版』を凌ぐほどの名作を、今後も期待したい。


(本稿について考えたことや疑問・反論などあれば、ぜひお気軽に筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

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