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1月9日:成人式と同窓会

2003年産まれ。
今年の2024年、成人式を向かえた。

とはいえ、成人式で心入れ替えたとか、その後の同窓会で運命的なことがあったわけでもない。
元から特別視さえしてない。
心入れ替えるイベントは新年で十分だ。

同窓会へは行きたくなかった。
成人式には行かないと親とか世間体の意味で、マズイ気がするし、行かない理由もなかったから、行くとして。同窓会へはどうもやる気が乗らなかった。
それはきっと、一浪をへたことやこれまでの生活によって得た、周りのみんなとの遅れを感じたくなかった。普段の大学生活でも感じる遅れを同窓会ではより多く感じると思う。それを嫌に思う理由は今の自分にある。僕は成長するにつれて、思考が大人びて許容できるものが増えたり、余裕が生まれたわけでもない。それは、中学生のまんまの僕が、よりなんの意味もないのにめんどくさく黒く鋭く世を憎む一種のそこら辺の大学生になったからである。だから、根幹はガキだ。価値観も成長してない。まあ、幅は増えた。しかし、尖りに尖った思想で、気に入らないものは排斥するようになった。そんな、浅くて小さなみっともない価値観で生きていると、会話や話題でひしひしと遅れを感じる。それが嫌に思えた。それに加えて、僕の価値観を元に僕から排斥するべき人、忌むべき人を沢山見るのだと同時にも思った。でも、悪いのは僕だ。その矛盾に悩む。信じたはずの価値観を元に審判をした人を悪いと決めつけて終わりにすれば良いのに、その審判自体が悪いとも思ってしまうところだ。処理の仕方に悩む。大抵、悩むタイミングは遅れを感じた瞬間であって、食い違った発言を元に始まることが多い。だから、時すでに遅しである。同窓会とはそれの連続にあると思った。

でも、現実は違った。
曲がりなりにもみんな、同世代の悩みを抱えている。僕と同じように遅れを感じていたり、成長してない人ばっかりだった。いや、成長してないわけではないと今は思う。当時の中学生だった僕らを知っている人達の前で、成長した今の僕らが上手に馴染めるわけもない。きっとあの場には当時のまんまのみんなが戻ってきたのだと思う。大学や、彼女や、バイト先。それぞれの今の居場所に戻れば、検討もつかないような成長をしているのかもしれない。当たり前のように、現在生活の大半で所属している舞台でのみんなが各々くると勝手に勘違いをしていたようだった。
きっと、同窓会はそんな場だと思う。

だから、楽しかった。
三次会まで行った。
朝までコースだった。

翌日、9日。
これを書き始めたのか9日である、今日。
女の子と2人で飲みに行ったが、僕は思った。雁字搦めになった僕の経験では、これから恋愛面に置いて何も成すことが出来ない気がした。勇気とかその問題じゃない。我ながら面白い。
本当に、今やるべきは教職かバンドしか無いみたいだ。
頑張ろう。


さくし

最初の曲について、悩みに悩む。
どんな曲が僕らしいのか。

あまり、曲を聴くにしても、優先順位で言えば歌詞は最後の方にあると思う。最初はメロディ、次に楽器隊、次にボーカリスト…などなど経過した後に興味が湧いた段階で歌詞を見る。だからといって、疎かにしていい部分でもない。と言うか、疎かにしていい箇所なんてない。

思うには、所詮生活のニュース程度であって欲しい。特別ななにかなわけでもなく、僕の今の生活を営む程度の何かであって欲しい。
届くものは、人生を変えるようなものでもなく、心に染みるものでもなく、僕の心の日々の生活のニュースが歌になればいいなと思う。

何気ない生活のニュースが
君の街に届くまで
くだらない僕の歌が
君の街に届くまで

窮屈な僕の心
個性じゃない変化が遠くへやった
閑散な駅前ロータリー
足りないのは愛だと思うんだ
僕の何もかもを
歌にしてもつまらない気がした
きっと必要は悲哀と機微の快楽と
ありがちな生活のニュース

悲しさを歌えばありあまるこの街で
楽しさを歌うには寂しい僕の歌で
世界を救えるなら僕を救ってよ
遠くまで、遠くまで
君の街まで、届くまで

届けものを書こうとして
ペンを握って見つけたのは
なんでもない僕がいた
夢見がちな僕の未来には
両手に収まるはずのもの
愛、憎、悦、劣

苦しさを歌えば廃れたこの街で
愛の歌を歌うにはなけなしの僕の心で
なにか救えるなら君を救うよ
遠くまで、遠くまで
君の街まで、届くまで

草臥れた日々の生活が
君の街まで、届くまで
使い古しの愛の言葉が
君の街まで、届くまで

君はなんなのだろうか。
知ってる人なのか、知らない人なのか。
好きだった人なのか、嫌われた人なのか。
謳歌している人なのか、病めている人なのか。

多分、そんなのはどうだっていいのかもしれない。
僕がなにかをして、それがどこかに届けばいいのかな、とか多分それくらい。生きた証を遺したいわけじゃない。これはSDGsだ。僕のどうしようもなく、くだらない生活と心の副産物を詩と歌にして、放出することが大義なのかもしれない。そういう意味で「世界を救えるなら、僕を救ってよ」。書きたいものは、世界を救うような歌じゃない。でも、歌の秘める力は、世界すら変える力もある。そんなのは求めてないから、僕を救ってくれよ。そして、それが他の誰かに届いて、変化を与えるなら「なにか救えるなら、君を救うよ」にさせてほしい。