エイプ・リルフールは死んだ

 エイプ・リルフールは死んだ。
 昼過ぎ、定点カメラに写っていないことを不審に思った飼育員がバックヤードのケージの前に辿り着くとケージの隅でエイプ・リルフールが丸くなるようにして横たわっていた。
 既に死後硬直が始まっており救命措置は行われなかった。

 解剖結果と状況を併せ、前日深夜から未明にかけて死亡したものと推測された。
 早朝の餌やり担当者はチェックリストに異常無しと記入しており責任を問われた。

 エイプ・リルフールは雌の霊長類である以外、年齢も出生も種属すら分かっておらず、ただエイプ(類人猿)・リルフールという名前のみで20年以上飼育されていた。

 エイプ・リルフールを動物園に連れて来た進化生態学者のフクベ・ワタヌキ(四月一日福兵衛)博士は彼女を20世紀初頭の極秘実験によって作られたヒューマンジー(ヒトとチンパンジーの交配種)の子孫であると説明したと記録されている。エイプ・リルフールが動物園に引き取られた翌日、ワタヌキ博士は研究データの捏造が発覚する直前から連絡が取れなくなり以後消息を絶った。

 エイプ・リルフールの遺伝子を検査した結果、チンパンジー・ゴリラ・オランウータンを含む11種の猿の遺伝子が検出され騒ぎとなったが、検査を行った企業のDNAシーケンサーが正規のメーカーのものではない偽造品であることが後日発覚、検査結果は誤りである可能性が高いとされている。以降、彼女のDNA検査は予算の都合により行われていない。

 エイプ・リフルールの名前の由来をワタヌキ博士は彼女の祖先が棲息していたアフリカの部族に伝わる地母神の名前であると語っていたと記録されている。この逸話に興味をもったある言語学者がアフリカで調査を行ったが「リフルール」と思しき神を持つ部族は発見されなかった。

 エイプ・リルフールが動物園において一般公開されたことは一度も無いが、人目を避けるように飼育されている正体不明の猿の噂は常連客の間で有名になっていた。地下100mに隔離された巨大猿、言語を話しコンピュータを操るヒューマンジー等々、およそ考えつく限りの荒唐無稽な姿で彼女の都市伝説が語られていた。

 エイプ・リルフールはバナナが好物であると伝えられているが記録では餌に含まれているバナナを食べずに残していることが多い。引退した初代飼育員によればエイプ・リルフールが好きなのはバナナを食べることではなくバナナの皮を丁寧に割いて紐状にし結んだりほどいたりして遊ぶことなのだとも言われていたが彼女が実際にそのような遊びをしている映像記録は存在しない。

 エイプ・リルフールはチンパンジーとして見れば極めて大人しいが、稀にケージから脱走した。病気のふりをして飼育員をケージに入らせ、寝床用の枝葉や餌の残りで作った身代わりで飼育員の視線を引き一瞬のスキをついてケージを抜け出したと記録されている。彼女の作る身代わりは簡素だが実に巧妙で、何度対策を立てても忘れた頃に騙された飼育員が脱走を許した。

 エイプ・リフルールの何度目かの脱走と同じ日の深夜、酩酊状態の格闘家がサイと戦うため動物園に侵入、サイのケージに辿り着く前にエイプ・リルフールと鉢合わせし取り押さえられた、との噂が地元の小学校の間で広まっている、とある地方紙がコラムに書いたが動物園には該当する記録は無い。小学校の校長は問い合わせに対しそのような噂を話す生徒を自分は知らないと回答している。

 脱走したエイプ・リルフールが確保されるのはいつもエントランス広場の桜の木の下であり、殆どが桜の開花時期だった。エントランス広場の対角線上にあるバックヤードにいながら何故か彼女は桜が咲いたことが分かるらしく、脱走に成功するのは例年より早咲きの年が多かった。この桜はポトマック川から風に載って飛んできた種が芽吹いたと信じている者がスタッフを含めて大勢いるが実際には創立十周年を記念して寄贈されたとの記録が残っている。

 エイプ・リルフールと初代園長、そしてワタヌキ博士が桜の下に並んで立っている写真が記録保管室の隅に眠っている。この写真は合成されたものだと証明できる、と主張していた若い飼育員は半年後に宇宙飛行士を目指すと言って辞職し、その後を知る者は園にいない。

 エイプ・リルフールのケージの中にはいつからあるのか分からないボロボロの小さなニホンタヌキのぬいぐるみがあり、彼女は餌やりの時も掃除の時もぬいぐるみを自分の傍に置いている。ニホンタヌキのぬいぐるみを彼女が手放すのは脱走する時だけだった。

 エイプ・リルフールは極めて大人しいと同時に極端に憶病でもあり、人間から常に距離を置き飼育員や獣医が身体に触れようとすると激しく抵抗するため診察や健康診断は手間がかかる方だった。

 エイプ・リルフールはワタヌキ博士を異性として愛していたという初代園長の発言を複数の古参飼育員が記憶している。その発言に感銘を受けたインターンの大学院生が「類人猿の恋愛」をテーマにシンポジウムを企画したが当日会場に現れなかった、との記録が残っている。なお当該年度は補助金減額を恐れた経営陣によるイベントの水増しが発覚し自治体と税務署による監査が行われている。

 エイプ・リルフールを見たいと飼育員に要求する客は定期的にいた。殆どは門前払いされたが不正会計の年の税務署員のような例外もいた。正体不明のUMAと対面するかのように意気込んでバックヤードに足を踏み入れた税務署員はケージの隅に縮こまる年老いた猿を見て、落胆を隠すかのように精一杯の作り笑いを浮かべながら帰ったと当時に日誌には記されている。

 エイプ・リルフールが死んだ日、サン・フランシスコの高速道路で自損事故により死亡した男性がワタヌキ博士であるという真偽不明の情報が流れた。それから間もなく、ワタヌキ博士は半年前に東京の病院で急性肺炎により亡くなっていたことが判明した。

 エイプ・リルフールが死んだ年、エントランス広場の桜は咲かなかった。これに関し「エイプ・リルフールの呪い」と題した怪談が匿名掲示板に投稿されたと伝わっているが、該当する書き込みを発見出来た者はいない。

 エイプ・リフルールを見た、という情報が彼女の死後動物園に多数寄せられるようになり関係者を困惑させている。エイプ・リルフールを撮影したとSNSで拡散された動画に写っているのは希少動物の密売業者から警察が押収したオランウータンだった。

 エイプ・リルフールの「遺品」となったニホンタヌキのぬいぐるみは彼女の死後間もなく行方不明になった。翌年発売された日本製のゲームに登場するキャラクターがぬいぐるみによく似ているとスタッフの間で話題になったが本当に似ているのか確認する手段がない。


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