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鼻のけもの バナナサンデー第18話

店主はうつむきぼそぼそとサンドイッチを食べていた。
ふと気配を感じて何気なく振り向くと幽鬼のようになった妻が赤く泣き腫らした目で店主をじっと見ていた。
「うわっ」
思わず椅子から転げ落ちそうになる。
妻の十和子の頬はげっそり削げ、肌は死人のようだった。
髪は何日も梳かしておらずボサボサだった。
「あなた…何食べてるの?葉が死んだっていうのによくサンドイッチなんか食べられるわね」
店主はまじまじと妻の口元を見つめた。
唇がしわんでいる。脱水症状になっている。
それは、そうだ。十和子は一体どれくらい飲まず食わずで泣いてたんだろうな?
「十和子。ようが死んで悲しいのはわかる。俺だってどうしようもなく悲しいよ。でも俺たちは生きてる。生きてる者にはやる事がある。いつまでも仏壇の前で泣いているわけにはいかな…」
店主がそこまで言うと妻が殴りかかってきた。信じられない馬鹿力で口を殴られた。
油断していたのでまともにくらってしまった。口の中に血の味がひろがる。
「あんた、なんで!サンドイッチなんか食べてるのよお!葉が死んだんだよ!葉が死んだのに何平気な顔してんのよ!」
また妻が殴りかかってきたので、店主は慌てて立ち上がった。
「やめろ!やめなさい。どうしたんだ」
妻はまた拳を固めて店主の顔を殴ってきた。
妻にこんな馬鹿力があったとは知らなかった。
店主は防御しながら妻を落ち着かせようと話りかけた。
「やめろ!痛い。痛いじゃないか。こんな事して何になる?無駄だ」
妻の両手を掴むととりあえず顔を殴るのは止んだ。
店主がほっと息をつく間もなく今度は腹部に蹴りを入れられた。
膝蹴りをまともにくらってしまった。
息が一瞬とまり、店主はうずくまった。その背を妻は蹴り飛ばした。
「あんたはいつだってそうだ!冷たいんだよ!あんたは全然悲しんでない!自分の子供が死んだって自分には関係ないって顔してサンドイッチなんか食ってるんだ!」
妻の絶叫がびんびんと聞こえる。
いや、違う。違うぞ。十和子。
店主は反駁する。
悲しんでないって?そんなわけあるか!
息子が死んだんだぞ!
お前みたいに泣けばいいのか?
泣かなければ悲しんでないのか?
なぜ、お前にそれがわかるんだ!
しかし、言葉にはならなかった。
床に倒れ、妻に好きなだけ殴ってもらうことにした。
諦めた。
俺は全部諦めたんだ。
人間らしい感情を持つことを放棄したんだ。だからいいよ。
お前の気の済むまで殴って蹴り飛ばしてくれ。そうだ。いっそ殺してくれてもいいぞ。そしたら天国で葉に会えるかもな。

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