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鼻のけもの バナナサンデー第11話

その夜、店主は布団に入るとたちまち寝息を立てた。
鼻のけものは勇躍躍り上がって、しがみついていた肩からジャンプすると店主の鼻の穴に飛び込んだ。
鼻のけものは鼻の中に居てこそ本領を発揮できるのだ。
当たり前だが人間の鼻の中は湿っている。
鼻毛の隙間に身を落ち着かせると鼻のけものは精神統一しはじめた。
店主の心と一体化する為、じりじり集中した。
鼻のけものは店主の心に近づいた。
ひとの心は一瞬、一瞬で変化していく。
無限の彩りの中、鼻のけものは店主の夢を覗き見た。
最初に鼻のけものが見たのは、灰色の空だった。
鉛色の雲が立ち込めて、今にも泣き出しそうだった。
店主は(あ、雨が降ったらようが困るだろうな)と窓の外を見て思った。
「雨、降りそうね」
横で妻の十和子が言った。
「前に雨がざあざあ降りの日に捨て猫拾って帰ってきたわね。」
十和子が心配顔で言う。
「その後、熱だしたのよね。猫が濡れちゃうからって上着で猫くるんで、自分は風邪ひくんだから」
「学校に置き傘があったんじゃないか。」
「ないわよ。置き傘なんて」
「だよな」
ふたりはカウンターの内側で会話をしていた。時刻は午後5時少し前。
「葉は身体を冷やすとすぐ熱出すんだから。猫なんか濡れても風邪ひかないわよ。かえって毛がきれいになるじゃない。もっと自分の身体に気をつけなさいって言ってるのに、葉はちっとも言う事聞きやしない」
十和子は息子の心配を口に出すと切りがない。息子を愛しているのだ。
「親の心、子知らずって云うだろ。葉は人が良くて、間が抜けてるとこあるからな。優しいんだよ」
店主は薄く笑って言った。
本当に息子は優しい。優し過ぎるくらいだ。
葉は思いやりがあり過ぎると店主は感じる時がある。それは、店主自身、自分は薄情だと自覚があるからなのだが。
なぜ、息子はあんなに他者を気にかける事ができるのだろう、と感嘆させられる時がある。店主の少年時代は毎日が絶望と自分の無力さとの戦いだった。
自分の事で精一杯で他者など目に入らなかった。人間としての深みを息子に見て、この世の不思議を店主は思うのだ。
あの子が自分の息子とは。
この世にはまだ希望があるのだと。
とうとう雨が降り出した。
たちまち、ざあざあと激しく地を打つような大粒の雨の音が店を覆っていく。
その時、電話が鳴った。
プルルルル、プルルルルという音が不吉に思われた。店主は嫌な予感がした。第六感が働いたのだろうか。本能が告げていた。
この電話に出たらすべてか壊れる。
店主が受話器を取らないので、怪訝な顔をしてから、妻が電話に出た。
窓を雨が叩いては、流れていった。

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