見出し画像

ねこの孫3

紀子のりこは夫の洋一よういちとふたりで「キッチンこやま」という洋食屋を営んでいる。
結婚して九年経つが、その間、紀子は二回流産を経験し、子供はいなかった。
夫婦は子供を持つことを諦めかけていた。
紀子と洋一は35歳になる。
とにかく夫婦は仕事を頑張ろうと、店の定休日にはあちこちのレストランを食べ歩き、それなり充実した日々を過していた。
ある日紀子は自分の身体の異変に気づいた。生理が来ない。何だかだるい。
でも生理はもともと不順気味だったし、連日の仕事で疲れたんだろうと気に留めなかった。しかし、腹まわりが太った気がする。そりゃそうよね。食べ歩きばっかりしてんだもん、と紀子は思っていた。
だが、店の定休日の水曜日、洗濯物を干そうと洗濯かごを持った途端、紀子は腹に違和感を覚え、うずくまったら、あれよあれよという間に破水し、小さな小さな生き物が羊水とともに紀子の股から生まれ落ちた。
呆然とする間もなく生まれたものを見た紀子はとにかくこの子を生かさなくっちゃという強い思いに突き動かされ、大声で洋一を呼んだ。
それから、清潔なタオルで小さな生きものの身体を拭いてやる。人間の赤ちゃんじゃない。手のひらに乗るくらいの小さな、この子は…ねこの赤ちゃん!
「おい、どうしたんだ?」
洋一が部屋にやってきた。
「洋ちゃん大変!生まれちゃった!」
「えッ」
洋一は過去の妻の流産を思い出した。
「生まれたって、流産か?」
洋一の背を冷たい汗が流れた。
「違う、違う。生きてるのッ。ミルクッミルクあげなきゃ」
「何言ってるんだ?救急車呼んだほうがいいんじゃないか」
「だめよ!ぴゃーぴゃー鳴いてるのよ。ミルクッ。ドラッグストアで子猫用ミルク買ってきて。すぐ!」
洋一は妻の言葉がわからず立ち尽くしていたが、紀子が「すぐ行って!」とすごい剣幕で怒鳴るので頭の中で「?、?、?」と繰り返しながら子猫用ミルクを買い物に行った。

「洋ちゃんはね、いまだに現実が受け止めらんないのよね。杏が人間の言葉を喋るのに…。人間の言葉を喋るのが私達の子供の証明なんじゃないの?」
紀子はテーブルに両肘をつき、自分の顔を覆った。
「うーむ。洋一君は大変だな。今日も仕事なんだろう」
「私が杏の世話に追われて店出れなくてバイト雇ったんだけど、慣れるまで洋ちゃんがバイト君に仕事教えなきゃでしょ。洋ちゃん人に物教えるの苦手なんだよね。やっぱり私が早く復帰しないとさ。だからお父さんに杏をみててもらおうかなって思ったんだけど…」
紀子はテーブルの一点を見つめながら言った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?