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鼻のけもの バナナサンデー第16話

ひとの心の中は計り知れない。
親と子であっても、夫婦であっても。
それでも生きてさえいれば、いつかは心を打ち明け合う時が来るはずだ。
店主は自分が父親になった時、決して我が父のようにはならないと自分を戒めた。
店主の父は暴力を振るう男だった。
何度、殴られたかわからない。
それは店主の心の底に澱となり、成長してからも店主を苦しめた。
幼い時の痛みと恐怖。
生きる事は耐えがたい苦痛だった。
妻と出会い、籍を入れ喫茶店をふたりではじめた。日々は充実していた。だが、子供を持つことは店主にとって不安しかなかった。
しかし、妻は妊娠した。
5月の若葉が輝く日、妻が産気づき、慌てて産院まで車を走らせた。
とうとう自分の子供が産まれる。
不安しかないというのに。
我が子と対面した時、店主は積もり積もった自分の苦痛を忘れた。
まだ猿のようにしわのある泣き顔。
それは、命の泣き声だった。
自分の命を分けた者。
自分は何があってもこの子を守らなくては。

店主は切り干し大根をぐつぐつ煮ながら、息子か産まれた日を思い返した。
眩しい光。若葉が輝いていた。
その光景は鼻のけものにもはっきり見ることができた。
(嬉しかったんだな。自分の子供。赤ん坊を抱いて、店主は)
鼻のけものはそう思ったが、その息子は死んでしまったのだ。
なんという喪失だったろう。
店主はちらりとカウンターの女性客をまた見た。
若い女性はバナナサンデーを半分くらいまで食べ進めていた。
彼女の手首の傷が気になった。
リストカットというやつだろうか。
何にせよ、若者には死んでほしくない。
店主は心からそう思う。
死ぬ前に話してくれ。
苦しみを、思っていることを。
ひとりで死んでいかないでくれ。
店主はひたすらそう思う。
結局、遺書もなく、息子がなぜマンションから転落したのかわからない。
そう。ようが遺書なんか書くはずないんだ。
死ぬ理由がわからない。
現場のマンションに友達が住んでいたわけでもなかった。
なぜ葉がそこに行ったのか。

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