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鼻のけもの バナナサンデー第13話

鼻のけものは店主の鼻の中でむうっと身を縮めた。
店主の過去がどんどん見えてくる。
湿った空気の匂い。線香の匂い。
…死の匂い。無機質な壁。
どうして遺体安置所はこんなに寒いんだろう。…馬鹿だなぁ。遺体を腐らせないよう冷やしてるんだよ。
息を吸い込むのも躊躇する。
床に十和子が座り込んで泣いている。
自分はそれをぼんやり見下ろしている。
警察のひとが困った顔をしてこっちをみている。息子さんかどうか、ご確認をお願いします、と言われたんだった。
いやだ。あの布。遺体の顔を覆っている布をめくるだって?もし、ようだったら。葉じゃなかったら…。思考は止まらず、手は動かない。

店主は現実の仕事をこなしながらも、頭は過去の中にいた。
ランチタイムを過ぎてアルバイトの浅利くんにまかないを作る。ランチメニューと同じチキンカツ定食だ。
レタスサラダにありったけの卵のそぼろを振りかける。
スライスした赤ピーマンを散らす。
チキンカツには擦り込んだごまを混ぜた特製ソースをかける。
じゃがいもと玉ねぎの味噌汁には三つ葉を散らした。
「うまそうですね。いただきます!」
浅利くんはさっそくチキンカツにかぶりついた。
店主は手を拭きながら、現実感がない自分を思う。
自分はあの雨の音がしとしと漏れ聞こえる遺体安置所に居るような気がする。
結局、葉の顔の布をめくってくれたのは白い手袋をした警察のひとだった。
葉は眠っているように目を閉じている。
口が少し開いていた。
額には傷があるのかガーゼで覆われていた。小さな擦りむきが顔のあちこちにあった。
その空間を引き裂くように十和子が泣き声を上げた。
叫ぶように泣くので、店主は動悸がした。
しかし自分には妻をなだめるすべがない。自分が泣きたかった。
息子が死んだのだ。
だが、今それは許されないだろう。妻が取り乱す時、夫は理性を保たなければ。
店主は妻の腕をつかんだ。
慰めるつもりで肩に触れた。
すると十和子はすごい勢いで店主の手をはねのけた。ついで「さわらないで!」と泣きながら怒鳴った。
店主は戸惑った。警察のひとも戸惑った。
十和子は手負いの獣のように葉の遺体を背に庇うと男達を睨みつけた。
「あたしの葉に近づかないで!あんたのせいよ。あんたのせいで死んだのよ」
妻は錯乱したのだろうか。
店主は頭の芯が冷えていった。
冷えたがまあ、十和子の気持ちもわかるよ。と心の中でつぶやいた。
この世でもっとも最悪な事に遭遇したのだ。錯乱して当然だ。
でも俺のせいか?
俺のせいで息子が死んだのか?
どうしてそうなる。さっぱりわからんな。
「十和子。落ち着きなさい。困るだろう。こうなっては葬儀もしなければならないし、連絡するところもあるんだから」
店主は自分で言ってから、自分で驚いた。
そうか、息子が死んだら葬儀しなくちゃならないもんな…。
どこか他人事のような気がした。そこで遺体になっている葉とは別に生きている葉がいるような気がした。


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