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運命なんて決まってない

少し前、「忘却についての一般論」という小説を読んだ。いつもの図書館で棚を眺めていたら、何となくタイトルに惹かれて手に取った、という出会いだった。遠いアンゴラという国―——植民地からの脱却の後、内戦が激化した時代を生きた、名もない登場人物たちの物語。詩的な独白部分も多く、夜が沈んでいくような深さの言葉の中に、人物や風土が静かに閉じ込められている。

ルドヴィカは、昔から空が苦手だった。子どもの頃からひらけた場所が怖かった。家を出ると、自分はひ弱で無防備な存在だと感じ、甲羅から引きずりだされた亀のような気持ちになった。わずか六歳か七歳で、天気にかかわりなく大きな黒い傘を広げずには学校に通えなかった。両親に叱られようと、よその子どもたちにどれだけ意地悪されようと、そこは頑として譲らなかった。成長とともにましにはなった。だが、ルドが「事故」と呼ぶあの出来事が起こってからは、生まれつきのあの恐怖はその前兆だったのだと思うようになった。

「忘却についての一般論」(ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ著)より

ネタバレのようになってしまうが、ルドの「事故」というのは「一九五五年に見知らぬ男に強姦され、妊娠し」たことだ。「その悲劇」の後、彼女はひとりで暮らすことができなくなる。

余談だけれど、内容を知らないまま同時に借りた対談本「言葉を失ったあとで」(信田さよ子、上間陽子著)に、偶然とも思える内容が書かれていた。これもまた感じることの多い本だった。重くても大切に考えたいと思う。考えて言葉を連ねたい。

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冒頭の本のタイトルから、あるやり取りを思い出したので書こうと思う。

とある場で、わたしは過去の性被害の経験と、その当時の状況(こころのあり様や、思考のパターンや、感情のバランスの悪さなど)を話したのだった。
初めて打ち明ける相手だった。その場所の特性から、わたしは「そのひととまた話す機会はないかもしれない」と思いながら会話をすすめた。

ある程度まで互いに自分のことを話し、何をどこまでの距離で話せるのか、という感覚が掴めてきたころ(それはつまり、互いの状況をあえて言葉で確認はせず推測しながら会話をする、という、薄靄の中を歩くような危険行為なのだけれど)、そのひとは言った。
「忘れられたら一番いいよね」
彼女は、ずっと昔に自分の身に起こった出来事を忘れたがっていた。彼女の経験した出来事というのも(わたしの推測だが)何らかの性被害なのだった。
忘れられたらいいよね。あなたもそうなれたらいいよね。忘れたいけど、でも忘れられずに何十年も生きているのだけれど。
おそらくいつものわたしであれば、「そうですね」などの肯定の言葉を継いでいたと思う。彼女のその考えは自然なように思えるし、否定の理由は見つからないような気もする。
でも、わたしはそのときにこう言ったのだった。
「わたし、忘れたら生きていけなくなるような気がします。忘れたら、まるで片足をうしなったまま歩く不自由さがあるような、そんな気がします」
咄嗟に出たその言葉に、まず驚いたのは彼女よりわたし自身だったのではないかと思う。そして慌てて、
「忘れたくない大切な思い出、という意味ではありません。誤解しないでいただけるとありがたいのですが」
と付け加えた。彼女は、大丈夫だよと大きく頷いてくれ、伝わってるよと言った。


おそらくわたしのした経験は、しなくて良いのならそのほうが良い、後々苦しまなくて済む、といった内容のものだ。だからといって、忘れられるのならばそのほうが良いのかというと、そうではない気がするのだ。
わたしにはきっと、その経験によって歪められた思考パターンがある。ある行為において、相手の愛情を感じながら行うのが怖いとか。わたしにとってそれは暴力行為で、そうであるほうが安心するとか。その思考パターンのせいで、自らそういう行為を好む相手を選び(あるいは離れられず)、関係性を作ってしまうとか。相手に依存させる裏で自分も依存するとか。ひとはそれを共依存と呼ぶ。
こんな不健全な思考パターンを持ち、それに従って行動していれば、まあ生きるのは大変だ。
しかし、大変な生き方を選ぶ思考をしているのはこのわたし、と気づくのもわたしで、じゃあやめよう、と軌道修正する(できる)のもわたしだ。

この、「じゃあやめよう、と軌道修正する(できる)わたし」を感じるとき、わたしは自分の中に力があることに気づけるのだ。
自分の苦しさに気づき、それが自分の思考パターンによるものだと気づき、思考パターンによって支配されていた自分の行動パターンを理解し、じゃあ自分で変えよう(変わろう)と決め、自分で新たな行動をとる。この主語の羅列! 
「過去と他人は変えられない」という有名な言葉があるけれど、まさにその言葉通り、「自分ならば変えることができる」という経験。そのきっかけは、不本意かもしれないけれど、傷つきの体験からなのだ。
…ああ、これがPTGか。
※PTSD…心的外傷後ストレス障害(Post Traumatic Stress Disorder)
 PTG…心的外傷後成長(Post Traumatic Growth)

いま、ここに生きているわたしは、何十年のわたしの過去の余すことなくすべて、を生きてきたわたしだ。まだまだとか、たったの、と言われるような年齢かもしれないが、自分の生きてきたまるごとをすべて抱えている自分、というのはいまこの自分しか存在せず、そしてそれはどんな年齢であろうと平等に同じことだ。
もし、このまるごとの過去の任意の一部分を取り除くことができたとしたら、ひとはバランスを崩すのではないかと思う。どこか一部分美容整形をすると、やがては歪みが来て、ここもあそこもと気になって止まらなくなるみたいに。
そもそもの歪みを抱えながら、こころと身体を駆使してカバーしている。カバーできるように、自分の仕様を変化させている。

忘れれば楽になる、と信じているあいだ、忘れるということは出来事に降伏するという意味を持つ。
忘れなければ苦しいままだなんて、なんというわたしの無力さよ。忘れなくても、わたしは歩いていける。つまずいた石の大きさに自分で惚れ惚れしてみる。ぬかるみが時にやさしく感じる。水たまりを飛び越えるときの、いつもより大きな歩幅。着地した足の裏の感覚にエネルギーをもらう。じんじんして痛くても、それもエネルギーに変えるのだ。


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