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わたしへ あなたへ

バスを待っていた。時間帯なのか、バス停にひとは少なく、わたしはひとり本を読んでバスを待っていた。その日外は暑くも寒くもなく、首の日焼けと、自分をまもる透明のベールとして身につけていた薄手のスカーフがちょうどよかったのだった。そんなときだった。

「ねえあなた、わたし○○まで行くんだけど」
初老の女性がわたしに近づいてくる。わたしに向かって放たれたその言葉は、最初、わたしへ向いていると気がつかなかった。
「ねえ、あなた」
二度目の声掛けで、それがわたしに向けられたものだと気づき、わたしは本から顔をあげてその女性に視線をやった。
色白で、濃茶の髪はふわふわしていて、ウールと皮が用いられたワイン色の手袋をはめている。まだ手袋を身につけるには早いが、全体に冬を思わせる格好をしていたからか、十一月の昼間でもさほど違和感を覚えなかった。

「はい」
わたしは、返事というのか反応というのか、というような返しを発した。なんだろう、このひと。わたしは道端や駅、病院の待合室などで、このようにお年寄りに話しかけられることが多々ある。東京駅で話しかけられ、ふたりとも行先が新大阪であることがわかると、自由席だったのをいいことに隣に座られ、二時間以上も会話につきあわされたこともある。
「わたし○○の××薬局まで行くんだけと、あなたそこ知ってる?」
初老の女性は、行先のバス停と、おそらくそのバス停の付近にあるのであろう薬局の名を挙げた。バス停についてはよく知らなかったが、挙げられたその薬局はおそらく有名で、わたしも知っている名前だった。
「あ、はい、××薬局ならわたしも知ってます」
わたしが正直にそう答えると、女性は途端に相好を崩し、「まあ~」などと言いながら手袋をはめた片手を上げた。よろこぶ犬がしっぽを振るみたいに。
「じゃああなた、△△は知ってる?」
女性は何かの商品の名を告げた。その薬局で取り扱われているものらしく、おそらくサプリメントか何かだろう。わたしには知らない何かだった。
「あ、いえ」
「あらそう。△△はいいわよ、わたしはもうずっとあそこで買ってるの」
「そうなんですね」
商品を知らないわたしにがっかりすることなく、女性は喜々として話を続ける。普及しがいがあるとでも感じているのか、女性は淀みなくその商品に含まれているであろう成分名や、効果・効能か「個人の感想」と思われるその商品の作用について話し始めた。「もうずっと買ってるの」という言葉に嘘はないらしく、「消費税込み」の値段もそらで教えてくれるのだった。

「そうなんですね、それはいいものに出会えてよかったですね」
わたしの口からついて出る言葉は、仕事中のそれそのものになっていた。女性のあまりに熱心な商品の紹介は、どうしても勧誘を思わせ、わたしは知らず知らず警戒と武装を施していた。バス停に適当な女性がひとり。他に待っているのは学生と思しき数人で、彼らは彼女のターゲット外だろう。
「本当にそうよ。あれはいいわよ」
わたしは嫌みのない程度の笑みを浮かべながら、その女性をみた。皮膚は薄く、目元には年齢相応(であろう)の皺がいくつか刻まれていたが、全体に健康的なつやがあり、薄化粧でも貧相な印象を与えない。色白ゆえにしみはできやすそうだったが、だからなんだというのだ、とすら思えた。しみがあって何が悪い? わたしはつねづねそう思っている。美容部員としてジレンマはあるが。

女性は、繰り返し商品の名を挙げながら、あれこれと特徴について話をしていた。免疫力があがるとか、胃腸の機能が高まって消化吸収がよくなるとか。女性はコロナにもまだ罹ったことがないといった。
話好きなんだな、楽しそうだな、と思いながら聞いていたら、話はこれまで女性が患ったいくつもの大病についての話題に変わっていった。
「胃も全摘したし、腎臓も片方しか残ってないし、リンパも相当取ったわよ。四年前、何もしていないのに急に足がむくんで体重が五キロも増えて、おかしいなと思って病院に行ったら余命八カ月って言われたの」
わたしが口を挟む間もなく、女性は次々と、これまでの過酷な病歴について語り始めた。たしかに、語るほどのことだろう。わたしはそう思いながらただしずかに聞いていた。読みかけの本を片手に持ったまま。

女性は、でも悲壮な感じがまったくしないのだった。実際、主治医とのやり取りや入院生活でのあれこれを、笑いを交えながら楽しそうにすら語る。「八か月っていわれたのにもう四年も生きてるでしょ、主人には『まずい、思ったより老後資金がいるな』って言われちゃう始末なのよ」こんな調子だった。

「病気になってもね、ああ、わたしは病気だ、って思ったらだめよ。わたし、絶対再発も転移もしないって信じてるの。検査の結果が多少悪くて、先生が『大丈夫かなあ』なんて顔をしていたら言ってやるもの。先生、自分が手術したんでしょ、もっと自信持ったら? って。一昨日も定期検査だったんだけどね、このくらいの貧血は食事でどうにかしますから薬はいりません、って言ってやったわよ」
強いなあ。
わたしはそのとき、素直にそう思った。なんだか、素直にそう思えるタイミングだった。いつの間にか警戒と武装の仮面を外していた。たぶん、わたしには、仮面を外すことなく、素直に「強いなあ」なんて思えないタイミングのときも、ある。いや、そもそも、あなたはそうやって何でもかんでも前向きに捉えられる性格なんでしょう? 世の中のみんながみんな、そう思えるわけないじゃない。そんな精神論ですべて片付けるような暴力的な言葉は聞きたくない。と、こんなふうに。

女性が信じているものは、彼女にとって真実だろう。それでいいのだと思う。それで勇気づけられたり励まされたりするひとは大勢いる。わたしのように、日和見的に、それが受け入れられたりそうでなかったり、というひともいる。わたしが女性と出会ったときわたしはその話を聞き入れられる心身であり、それがわたしたちのタイミングだったのだろう。
「なんだか元気をもらえる話をありがとうございました。どうぞ気をつけて行ってらしてくださいね」
だから、わたしは素直にそう言えた。

先日、わたしの身近なひとが向こうの世界に行った。仕事の休憩中にLINEでそれを知り、わたしは返す言葉が思いつかずただ気持ちだけが乱れた。とても急な旅の知らせで、まわりはみな驚き、言葉もない様子だった。そのひとは最期まで、文字通りの活躍をしていたからだった。

声が大きくて体育会系なのに不思議とわたしはそのひとが苦手でなかった。厳しいけれど褒めるときは全力で褒めてくれて、独特の髪型がとても似合っていて、びっくりするくらい化粧が濃くて、笑いを取ることを忘れないサービス精神の持ち主だった。もう会えないんだ。もう会えないんだ。もう会えないんだ。もう会えないんだ。もう会えないんだ。もう会えないんだ。もう会えないんだ。もう会えないんだ。

わたしへ。いま会えているひととのつながりを大切にしようね。大切であることを、できるだけ、きちんと伝えようね。会えなくなることは寂しいけれど、のこしてくれたものが消えないように生きようね。

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