見出し画像

わたしを拾ってくれたひとへ③

予期せぬ出来事が起こり、すぐに解決に至らないとき、とりあえずそれを抱えて生きていかなければならないときがある。
出来事の整理をしたり、感情のケアをしたりする暇もなく、とりあえず。心身のキャパに対していっぱいいっぱいかもしれないと思いながら、それでもどうにかやり過ごす。そのような状態で、数日、数週間、あるいは数年間と過ごしていくうち、本質的な解決はしていなくても、いつの間にか、あふれそうだったものをうまく抱えていられるようになっている。そういう経験はきっと誰にもあると思う。
例えて言うなら、白菜をてんこ盛りに入れた鍋のような様子だ。蓋もできないほどに入れたあふれんばかりの白菜は、火にかけていくと少しずつ水気が出て、かさが減る。蓋はゆっくり閉まり、やがて汁気の中でとろとろになってゆく。かき混ぜなくても、調味料を加えなくても、自然とあるべき姿へ変化してゆく。
ひとの気持ちの変遷って、コトコト煮込まれている白菜に重なるような気がする。


…という話をあるひとにしたら、「いい出汁が出てるね」と返ってきた。
わたしはその反応がすごくうれしかった。この、伝わるか伝わらないか、ぎりぎりを攻めた比喩がどうやら上手く伝わり、おまけにその過程を経たわたしを受け入れてくれるような言葉をつけ足してくれたのだ。すごくうれしかったのだけど、そのときはなんだか照れくさくて言えなかった。

こういう微妙なニュアンスを汲み取ってくれるひとがいるというのは、なんてありがたいことなんだろうと思う。
いや、汲み取ってくれているかどうかなんて本当はわからない。確かめようのないことなのだ。夜空を見上げ、ひときわ輝く星を見つけて「あの星とってもきれいね」と指さすようなものだ。わたしの指さした先の星と同じものが、となりで見上げているだれかの瞳にも映っているとは限らない。となりのだれかが何を見ているかなんてわからない。
でも。それでも、同じ星を見ていると信じたい。

----------

話をして翌日、よしもとばななの本の一節が目に留まった。
わたし、同じ星を見てますか?

「あのね、人が出会うときにはどうして出会ったかっていう意味があって、出会ったときに秘められていた約束っていうものが終わってしまうと、もうどうやってもいっしょにいられないんだよ」

この記事が参加している募集

この経験に学べ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?