地元にまつわるエトセトラ

 大和川に架かる大城橋を、地元の人は「沈み橋」と呼ぶ。名は体を表し、雨が降ればあっという間に路面が浸水してしまう潜水橋だ。
 よく晴れ渡ったある日の昼過ぎ。私はマスクを着けて、沈み橋を徒歩で渡っていた――

 5月に入ってから、一日3kmほどのジョギングを続けてきた。しかしここ数日、左膝に違和感を覚えていたため、この日は散歩に切り替えてみたのだ。
 目的地は故郷である河合町が誇る廣瀬大社だ。
 「河が合う町」という名は、ここでも体を表し、河合町付近で大和川の支流がいくつも合流する。廣瀬大社はそんな地にあって、水の神様を祀っているのだ。
 初詣などで何度も足を運んできたわけだが、改めて考えてみると、この神社について知らないことも多い。
 故郷を知ることは日本を知ることにも繋がるのではないか――ドミニカ共和国で事あるごとに感じてきた「日本のことをもっと知らねば」という義務感を心の片隅に、カメラを携えて家を出た。

 ――河岸には紫色のカラスノエンドウが咲き乱れている。先月は菜の花が両岸を彩っていた。
 花々に注目すれば美しい大和川だが、残念なことにペットボトルやファストフードのゴミなどのポイ捨てがちらほら。誰かがまとめて捨てたと思しき、肥料のビニール包装がグシャグシャに散らかっている場所もあった。
 ため息でもつきたくなるような光景だが、これでも大和川は格段に綺麗になったと思う。と言うのも、私が通った小学校には大和川について学ぶ時間があり、昭和の頃の水質は最悪だったと聞いた。特に下流域にあたる大阪は、全国でも一二を争うレベルで汚れていたらしい。家庭や工場から排水を垂れ流していたのだろう、水面が泡立つモノクロ写真を見た記憶もある。
 あるいは私の子ども時代――もう20年も前か――と比べても、川の美化は進んだ。
 当時のたかふみ少年は、河原でゴミ拾いをするというボランティアに参加した。これも授業の一環だったと思う。
 私は遊び感覚で取り組んでいたが、それでも車のタイヤを砂の中から掘り出した時の衝撃は覚えているし、活動終わりにトラックに積まれたゴミ袋の山を見て、川は綺麗にできるのだと、子どもながらに感銘を受けたものだ。
 そう、あの頃を思えば、ゴミは少なくなっており、着実に環境は良くなっているように見える。

 岸辺を離れ、朱色に塗られた一の鳥居をくぐるも、その参道は黒々としたアスファルトで、少々趣に欠けた。両脇には大きな木々が林立しているが、神社特有の凛とした空気感もない。
 しかし、しばらく歩くと砂利の地面に変わり、一歩踏み出す度に足を取られるようになった。靴底では参道らしい小気味よい音が鳴っている。
 二の鳥居にたどり着いたところで歩みを止め、その傍らにある神社の由緒を説明する立て看板と向き合う。何やら小難しいことも書いてあるが、要約すると以下のような話になる。

 廣瀬大社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝に位置している。神社の西方には明治の中頃まで船着場があり、物資の集散地として賑わっていた。
 『日本書紀』には、天武天皇の時代である675年に行われた廣瀬大社での祭祀について記載があり、戦国時代に祭祀が途絶えるまでは毎年2回、朝廷から使者が遣わされた。その後は江戸時代初期まで一時的に衰退するが、1688年に復興してからは、水の神、水田を守る神、五穀豊穣の神として篤く信仰されている。

 少し考えれば分かりそうなことなのに、自分の町が水上交通の要衝だったとは知らなかったなと思いながら、鳥居を抜けて拝殿に向かう。
 初詣の時期はいつも乾いた印象を受ける境内だが、今は新緑が目に眩しく、まるで別の神社に迷い込んだようだった。
 あるいは、神社の歴史を知ることで見え方まで変わったのかもしれない。
 賽銭箱に小銭を放り込み、手を合わせた。