うさぎの島の負の歴史

 「うさぎで有名な大久野島へお越しのお客様は、次の忠海でお降りください」
 うさぎで有名、か……
 安芸幸崎の駅を出発した電車が流した無機質な電子アナウンスは、忠海駅に着く前にも流れた。
 金曜の晩に大阪梅田発の夜行バスに乗り込み、翌朝6時に広島県の東福山駅前のバス停に到着した。そこから在来線を乗り継いでやって来た忠海駅。竹原市の小さな港町である。
 「忠海」と書いて「ただのうみ」と読む。駅舎に設置されたコミュニティスペースのパネル展示によると、平清盛の父、忠盛が日宋貿易の交易路であった瀬戸内海の海賊を捕らえた功績として「忠海」と名付けられたらしい。ちなみに対岸の大三島には「盛村」があるという。
 駅舎を出て、線路沿いの道を歩いて踏切を渡ると、穏やかな瀬戸内海が見えてきた。陽の光を浴びてラメのようにきらめく水面の向こうには大三島が横たわっている。その手前に見える小ぶりの島が大久野島。車内アナウンスの通り、野うさぎが住み着いていることで有名な島だ。
 大久野島へ渡るフェリーのチケットを入手すべく土産物屋に入る。券売機で大人一人あたり720円の往復券を購入していると、5,6歳と思しき女の子を連れた夫婦が後からやってきた。同じくフェリーに乗るようだ。
 夫婦が券売機を見て話している傍らで、少女は天井近くの壁面に設置されたテレビモニターを見上げている。大久野島の紹介ムービーが流れており、かわいいうさぎの姿に混じって、緑に覆われた廃墟の映像が映る。
 「これ学校?」と少女はお父さんに尋ねた。なるほど、確かに廃校にも見える。
 お父さんは「これは……昔の古い建物やなぁ」と答えるに留まった。
 いや、それはねぇ……
 私は、心の中で少女に語りかけた。

 ――時を遡ること100余年前、ヨーロッパ諸国は第一次世界大戦の真っ只中であった。短期決戦というドイツ軍の当初の目論見は外れ、塹壕戦(機関銃による攻撃を避けるための溝である塹壕を戦場に掘る戦術)により、戦いは長期化の様相を呈していた。
 膠着状態を打開すべく、ドイツ軍は化学者フリッツ=ハーバーを登用し、毒ガスを開発した。ベルギーのイープルでの戦いで初めて実戦投入し、相手陣営のイギリス軍では一日で5000人もの犠牲者が出たとされる。
 戦後、無差別に人を殺戮することや苦しみながら息絶えていく様があまりにも非人道的であることなどを理由に、各国はジュネーヴ議定書を締結し、毒ガスを含む化学兵器の使用を禁止した。ドイツの化学者たちは毒ガスの技術を消毒や農薬に転用し、平和利用しようと会社を立ち上げたが、結局その後も第二次世界大戦中のホロコーストに毒ガスが用いられたように、人類はなかなか自制できていない――
 というような話を、去年4月から高校講師をやっている私は世界史と日本史の授業で扱った。教科書の本筋からは外れている部分もあるが、理系の生徒にも世界史に興味を持ってもらえればと思い、取り入れてみた。
 旧日本軍の毒ガス開発の話も盛り込んだ。その舞台となったのが、現在はうさぎの島として知られている大久野島だったのだ。
 少女が学校だと思った廃墟は、毒ガス工場に電力を供給するための発電所跡であり、私はそういった戦争遺構や資料館を見学するために遠路遥々やって来た。

 忠海港を出たフェリーは15分ほどで大久野島の桟橋に着いた。
 家族連れや若いカップルに混じり、一人上陸すると、早速うさぎのお出ましである。子どもたちが嬉しそうな声を上げている。
 ふふっ、うさぎも良いけど俺は毒ガスを……あ、あれ?うさぎが駆けて近寄って来る。か、かわいい……い、いや、俺は戦争という悲劇を学びにやって来たのだ。こんなうさぎちゃんに現を抜かしている暇など……あっ!前足で顔をごしごししてる!かわいい!……いや、だから俺は人類の愚かさを……あ!あっちではうさちゃんが日向ぼっこしてる!かわいい!悶絶もんやあぁ!!
 うさぎたちは私の姿を見るなり駆け寄ってきてくれる。どうやら忠海の土産物屋で販売されていた専用のエサや野菜の切れ端を観光客からもらえることから、野生のわりに人慣れしているようだ。
 結局私も高尚な見学者から俗っぽい観光客に早々と転身し、うさぎの愛くるしい姿をカメラに収めつつ、発電所跡や毒ガスの貯蔵庫跡などの戦争遺構を見て、島を反時計回りに歩いた。

 島の南側にあるのが、毒ガス資料館である。入館料の150円を支払い入ってみると、狭い展示室には意外にも多くの見学者がいた。
 高齢者の見学グループに解説しているガイドさんの話に聞き耳を立てながら、島の歴史や毒ガス製造にまつわる展示物を見て回る。
 島に工場を建てたのは東京と離れているのが理由という話や毒ガス使用に関する政府の隠蔽体質の話を読み聞きしていると、福島の原発のことを想起してしまう。製造の際に作業員が着ていた防護服の展示なんかは、廃炉のニュースに出てくるものとほとんど同じだった。 
 見学者の平均年齢は高かったが、その中に中学生ぐらいの女の子が混じっていた。うさぎ目当てできたのか、それとも親御さんが教育目的で連れ出したのかは分からないが、現代における毒ガスの被害に関する展示を熱心に見つめていた。被害者のただれた皮膚の写真が痛々しい。
 彼女は背後に立つ私に気付いて場所を代わってくれようとした。ありがたい申し出だが、私は目で「必要ないよ」と断った。彼女越しでも展示は見えるし、何より若い世代が学んだ方が良い。
 そして私も学び続けなければならないなと想いを新たにする。現代社会が直面しているほとんどの壁は、人類が一度は通ってきた道にもあったのだ。過ちを繰り返さないためにも、私は歴史から学び続け、そして伝えなければならない。
 資料館を出ると、春の到来を思わせる日差しと、まだまだ冷たい瀬戸内の風が心地よかった。それはちょうど、過去に向かって前向きな気持ちになった私の心境を映し出しているようだった。