アンガーマネジメントができていない大人を、私はどうしたって同じ人間として認められなかったりする。

「怒り」という感情が他者から表出する瞬間を、目の当たりにしたことはあるだろうか。もちろん、生きていれば必ずどこかのタイミングで怒られたり、叱られたり、説教をされたりする場面に出くわすことになる。これらに出くわさない人生なんてほぼ絶対にないと言い切れるだろう。そして、怒られる相手は親や身内といったプライベートな"ウチ"の立場の人間から始まり、学校の先生や会社の上司といった"ソト"の立場の人間へ移行していく。

"ウチ"の人間から怒られていた時期は分別のつかない幼少期〜少年少女期にかけてで、人間社会を生きていく上で守らねばならない必須ルールを破ったときに怒られることが多かったように思う。だが、青年期以降、特に社会人になり何かしら仕事をして責任を負うようになると、怒られる理由は多種多様で、時には理不尽で、時には納得がいかない、側から見ても理解できない理由で怒られることもあったりする。必ずしも、必須ルールを破ったから、怒られるわけではない。怒られる相手も"ソト"の人間に移行し、同じ価値観や立場を持たない人間から叱責を受けることだって否応にしてある。

パワハラ、モラハラといったハラスメント問題が取り沙汰されて久しい。社会全体としては少しずつ問題解決に向かって取り組みが為されているように見えるが、個人個人の単位でで見ればこの問題、根本的な解決はまだ全くされていないように思う。そもそもどうして、パワハラやモラハラといった問題は起こるのだろうか?そしてここに起因してくる感情が、厄介な「怒り」という感情だ。

「怒り」には必ず対象がいる。誰かに対して、何かに対して、「怒り」は起こる。しかしながらこの「怒り」という感情、心理学では二次感情といい、怒りに包まれてしまった別の感情「不安、悲しみ、落胆」が隠されているという。いや本当、人間ってやつは些かややこしすぎませんか。

でも確かに、このド直球な「怒り」という感情、性欲に置き換えてみるとわかりやすい。ド直球な「ヤリたい」という感情には必ず対象がおり、これに隠されているのは「対象を魅力的に感じている、子孫を残したい」といった別の感情である。

だがまあしかし、性欲に関してもそうだが、「怒り」というこの二次感情、ストレートにぶつけられた対象者/物は正直溜まったもんじゃない。好きで怒られたい人間なんて(一部特殊な性癖を除いて)そういないだろう。

怒られた側の人間は「怒られた」という結果しか残らず、怒った側の人間もそこに隠された本意を伝えることはできない。え、良いことひとつもなくね?

よくよく考えてみれば「怒り」には、こと仕事において、人間関係や職場環境に軋轢を生むだけで、大事な部分は何も伝えられず、根本的な解決にはどう頑張ったって結びつかない、そんな損失しか導かないものだとわかるのだが、これをわかっていない、わかろうとしない大人は社会にまあまあたくさんいる。社会全体の流れとしては変化してきていても、個人の単位で見れば、現在の風潮に疑問を抱く人も多いように感じる。

「怒ったほうがわかってもらえる」「怒られて自分は育てられてきたんだから自分もそうやって育てる」「怒られてハラスメントなんて甘えている」

だが、こういった声を一掃して私は声を大にして言いたい。人間の感情を研究し尽くしてきた偉大な功労者たちが「怒り」は一面的な感情でしかなくそこに隠された別の感情があると結論づけている。そしてそれこそが真に自分が感じていることで、それを伝えなければ紐解かなければ根本的な解決には至らない。一時的な感情だけを取り残し考えを放棄する思慮の浅さを「怒る」という短絡的な表現で表出している愚かさに、各々個人個人が気付き考えていくべきなのだと。

社会の雰囲気に流されて、なんとなくハラスメントがいけないとか、そういったことではない。もうすでに我々一般人の思考が追いつかない分野の一流の人々が結果を出しているのだ。「怒り」は何も生まない、と。

考えは多様であっていい。どんな価値観も存在し得る。だが、私にとって「怒り」を簡単に出してしまう人間は、物事の本質を捉えないジャイアントなベイビーくらいにしか思えないのだ。



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