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ネコと人間の八日間①

日々生きていると、いま自分は試されているな、と感じることがある。前を歩く人がものを落とす、道に迷ってそうな外国人、大荷物をもった老人……そういうとき即座に行動できる人は立派だけど、迷った末に意を決して行動するのも立派だし、たとえなにもできなくて苦い思いを抱えながら立ち去ったとしても、それはそれで次につながるなんらかの価値はあるように思う。

9月下旬の月曜日、マンガの原稿が予定してたより早く片づいた人間は、
「ちょっと早いけど走りに行くか」
誰にともなくつぶやくと、ジョギングウェアに着替えて外に出た。人間は去年離婚して今は一人暮らしをしている。8月は暑過ぎて趣味のジョギングは思うように距離が伸びなかった。9月も終わろうかというこの時期になって、ようやく日のあるうちから走れるようになった。
いつもは10キロだが、今日は時間があるからと3キロほど長めに走ったので、ふだんとは別の道を通って家へ帰ることになる。高速の高架をくぐれば家までは500メートルほど。その途中にコンビニがあって、さて今日はビールを何本買おうか。頭の中が徐々にビールで埋まってゆく。
高架のちょうど真下あたりを通り過ぎたときにネコの鳴き声が聞こえた。それはそんな気がしたという程度で、たまたま今日描いたマンガの原稿にネコが登場していなければ聞き逃していたかもしれない、そんなささやかな鳴き声だった。
声のしたほう、歩道の端の小さな茂みに目をやると、子ネコがうずくまり顔だけを持ち上げて鳴いていた。ケガをしているのか、空腹で力が入らないだけなのか、後ろの両足がぺたんと地面に張りついている。
「どうした? お母さんとはぐれたのか?」
人はなぜ会話できないとわかっていながら、動物に話しかけるのだろうか。
ネコの顔というのはだいたい丸いものだが、その子ネコの顔は逆三角形をしていて、かなりの美形だなと思った。テニスボールよりまだ小さい頭に耳がピンと立っている。顔のわりに大きな目は涙で潤んでいるのかキラキラ光ってこちらを見つめ、細いアゴをいっぱいに開いて鳴き声をあげている。それは「にゃー」というよりは「あー」とか「きゃー」に近い音だった。痛々しい状況と端正な顔とがアンバランスだった。
このネコがなんらかの手助けを必要としていることは間違いない。しかしそれを自分ができるとは思えなかった。イヌならば実家で飼っていたが、ネコを飼った経験はない。近くに母ネコがいるかもしれないし、保護するならきっともっと相応しい人が通りかかるかもしれない。人間は苦い思いを抱えながら、行動しないことを選んだ。

シャワーを浴びて、缶ビールを開ける。レンジで解凍した餃子を食べながらTVerでドラマをひとつ見終わると、ビールは3本が空になっていた。このまま寝るにはまだ早い。ドラマをもうひとつ見るためには追加のビールを買いに行く必要があった。つまみは柿ピーぐらいでいい。
薄い上着を羽織り、財布と鍵とスマホをズボンのポケットに。足もとに昼間Amazonから荷物が届いたときの小さな段ボールが転がっていた。縦横のバランスといい深さといい、もしあの子ネコを入れるとしたらちょうどいいサイズだ。必死に鳴き声をあげる顔が蘇ってくる。洗面所からタオルを持ってきて2回たたんで中に敷いてみると、端がほどよく立ち上がっていいクッションになりそうだ。
「まあ、もういないとは思うけど」
いないことが確認できれば、心おきなくビールが飲めるのだ。箱を小脇に抱えて家を出る。人間は再びネコがいた高架下にやってきた。

ネコはいた。

ネコは頭を向こう側にして、力なくうずくまっていた。生きているだろうか。おそるおそる背中に触れてみる。
「きゃ」
ネコは少し顔を上げて、小さく鳴いた。表情は弱々しく、先ほどより明らかに衰弱していた。これは助からないな……。
立ち去ろうと思ったとき、ふと誰かに見られているのではないかと不安になった。自分はタオルを敷いた小さな箱を持っていて、その前に弱った子ネコがいる。側から見れば、まるで自分がこのネコを捨てているかのような光景だ。あたりは暗く、人通りもない。誰かに見られているはずはなかったが、なんだかものすごく気持ちが悪かった。
「なあ、ごはん食べるか」
ネコに最後にうまいものを、たとえひと口でも食わせてやれば、少しは気分が晴れるような気がした。
人間はおそるおそるネコの背中をつかんで持ち上げた。イメージしたよりもふたまわりぐらい細くて軽かった。ネコは嫌がることなく箱におさまった。抵抗する力もなかったとは思うが。これはこれでまるで誘拐みたいだなと思った。
箱のふたをふんわりと閉め、コンビニに向かった。ネコのエサを何種類かと水と缶ビールを1本買った。

家に帰り、箱を開く。
「きゃ」
まだ生きている。タオルごと箱からネコを取り出すと、膝の上にのせる。タオルの重さしか感じないぐらい軽い。コンビニの袋からペットボトルの水を取り出す。キャップを開け、そのキャップに水を注いでネコの口元に近づけたが、飲もうとはしなかった。
次に取り出したのは「CIAO ちゅ〜る」。ネコが狂ったように食べると評判のキャットフードだが、実物を見るのははじめてだ。
スティック状のパッケージの封を切り、少し絞り出してネコの口元へ。ネコの舌先が触れる。一瞬の沈黙のあと、パクッとかじりつき勢いよく食べ始めた。ちゅ〜るを絞り出すやネコが食べるのだが、食べる勢いはどんどんと加速していき、そのうち人間が絞り出すスピードを超えていく。
「いたたた!」
勢い余ってネコは人間の手をかじっていた。小さいがなかなか鋭い歯が生えている。人間は血の滲む指を見ながら、なにかおかしな病気でももってなければいいがと思う。
2本目のちゅ〜るの封を切り、用心深くネコに近づける。ネコはそれを奪い取るように両手でしっかりと掴み、あっという間にたいらげた。

ネコはすっかり元気になっていた。ちゅ〜るのあとに、魚と鶏肉のまじったエサも食べて満足そうにしている。
「なんだ腹が減ってただけだったか」
落ち着いたら、いろいろ気になりはじめた。そもそも自分はこのネコが死んだらどうすればいいのか。元の場所に戻すのはまずいとして、保健所に連絡すれば引き取ってもらえるのか。もしかして火葬したり埋葬したりの手配を自分でやらなければならないのか。
でも、その心配はひとまず今日のところはなさそうだ。となると、今やるべきことはこのネコを清潔な状態にすることだ。道端の茂みに倒れていたのだから、それなりに汚れているだろうし、ダニやらノミやらがついているかもしれない。
体が冷えないよう、お湯で濡らしたタオルをかたく絞って体を拭いてやる。やはり後ろ足は動かないようでだらりとしている。背骨でも痛めているのだろうか。それにしても、体に汚れが全くない。どこを拭いてもタオルはきれいなままだ。いったいこのネコはどこでなにがあってあの場所に行き着いたのだろうか。
ネコは人間の腹の上でいつの間にか寝息を立てていた。人間はその小さく上下する背中を見つめながら、缶ビールを開けた。ネコのぬくもりを感じる腹に、ぬるくなったビールが流れ込んでいく。
ネコと人間の一日目が終わった。

お気持ちだけで十分だと思っていますが、サポートされたくないわけではありません。むしろされたいです。