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ネコと人間と膿の話

最後の晩餐の翌朝、もしもネコが目覚めなくても人間は動物病院へ行くつもりでいた。ネコの死をひとりで受け止める自信はなかったし、その後どういう手続きが必要なのかも確認する必要があった。

人間が目を覚ますと、ネコはもう起きていた。上半身を起こし、お腹がすいたのか小さく「あ」と鳴いた。ネコは昨日の残りのサンマをうまそうに食べた。動物病院へ行き「ちょっと元気になりました」というと、先生は少し驚き、そしてほっとした表情をした。昨日より小さな注射を打つ。中身は抗生物質と栄養。とにかくたくさん食べさせて体力をつけること。

診察が終わり、ネコをカバンに入れるときに、黄色いドロっとしたものが手についた。なにか吐いたのかと口元を見たが汚れていない。カバンから出して確認すると、右肩のあたりから膿(うみ)がたれていた。先生は針で小さく切開して中に残っていた膿をしぼり出し消毒をしてくれた。家でもときどき消毒するようにと消毒液を出してくれた。

翌日も病院へ行き注射を打ってもらう。今日も膿がたまっていたのでしぼってもらった。先生はなんでこんなところに膿がたまるんだろうと不思議そうだったが、「膿は白血球の死骸なんだ」と言うのをきいて、人間はこれは案外いい兆候なのではないかという気がした。

白血球は体内に入り込んだ細菌やウイルスと戦う血液の成分だ。その死骸である膿がたまっているということは、ネコの体が病気と正面からぶつかり合い戦っている顕れだ。膿があふれ出ている、つまり白血球が大量に死んでいるということは、その戦いが劣勢であるということではあるが、死んだ分の血液が補充できるなら戦い続けることができるはずだ。戦い続ければ勝機はあるだろう。先生が言うようにとにかくたくさん食べさせれば、血をつくることができる。もしかして助かるのでは……?

夕方、ネコが寝ている間に人間はジョギングに出かけた。戻ってくると、ネコは具合が悪そうだった。お腹がパンパンに膨らんでいる。これはやばいかもと、今日二度目の動物病院へ。夕方の病院は混雑していて1時間ほど並んで待った。

FIP(猫伝染性腹膜炎)には腹水がたまるウェットタイプと、たまらないドライタイプがある。うちのネコはドライタイプだったが、症状が悪化して腹水がたまりはじめたのかもしれない。お腹の毛をバリカンで刈り、エコーで腹の中の状況を確認する。その後、注射器を刺して腹水が出てくるか調べてもらった。水は出てこなかった。

うっかり油断して希望をもつと、こうやってまた症状が悪化する。バリカンで刈られて真ん中だけハゲているネコの間抜けな腹を見つめながら、彼はいま生死の縁に身を置いているのだと改めて思う。

夜はホッケを食べた。ドラマの「大奥」を見ていたら、伝染病を治療するシーンで病気を治すのは医者ではなく患者本人の治癒力だということを言っていた。きっとその通りなのだと思う。ネコは人間の指を両手でつかんで、なでてくれるようにとねだった。人間にできるのは飯を食わせることと、なでることぐらいなのだ。

翌日も病院へ行き注射。お腹の張りが気になるので、注射に利尿剤を入れてもらったり、便が出るようカンチョーをしてもらったりしてみる。食事は食べたり食べなかったりだと伝えたら、無理矢理にでも食べさせたほうがいいと言われる。エサはもっぱら缶詰のやわらかいキャットフードを与えている。先生はネコの口をこじ開けドライタイプのかたいエサをねじ込んだ。ネコはしぶしぶ噛みくだく。かわいそうに見えるかもしれないが、こうやって食べさせていれば慣れて食べるようになる、ネコにとっては幸せなことなのだと。

家に帰り、かたいエサを食べさせる練習をする。ネコは口を頑固に閉じている。指をねじ込み無理矢理に開く。アゴはまだ細くて壊れそうだし歯も折れそうで怖い。5粒ほど食べさせることができた。今日はこのぐらいにしといてやろう。

日曜日。動物病院は日曜と祝日は休診日だが、朝1時間だけ開いて診察をしてくれている。どこまでも良心的な病院だ。9時に行って注射を打ってもらう。膿もしぼってもらう。病院帰りに少し歩いて行きつけの神社へ。

20年近く通っているお気に入りの神社だ。大きなクスノキが社殿の前に立っていて、その木に触れるとなにか力がもらえるような気がする。ネコも不思議そうな顔で見上げていた。帰ってくるとネコは自分でかたいキャットフードを食べた。夜は鯛のアラを焼いて食べた。

翌日は祝日だったが、やはり動物病院は開いている。膿がたっぷりたまっているようで腕がかなり腫れていた。先生にしぼられるとネコは珍しく「ニャー!」と鳴いた。この声をきいたのは高架下でネコを見つけたとき以来だ。このネコは全然鳴かない。ときどき「あ」とか「きゃ」とか小さく言うだけである。無口なタイプなのだろうか。

しばらくネコは横になってばかりだったが、このところ体を起こして座っていることが多くなってきた。下半身が麻痺していると後ろ足を前に伸ばして座るのだが、今はきれいに折りたたんで座っている。だいぶん麻痺が改善してきているようだ。膿は相変わらずで、夜になるとしみ出してきたので、脱脂綿で拭き取りながら過ごす。

翌日も注射を打ちに病院へ。患者は圧倒的にイヌが多いが、今日はひと組前の患者がネコだった。改めて大人のネコを見るとでかい。ジョギング中に見かけるネコもどれも大きくて、うちのネコもこんなに大きくなるのだろうかと思う。考えてみたらまだ生後1ヶ月半だ。生きてさえいればきっと大きくなるのだろう。

そういえば今日は病院で膿をしぼらなかったなと思いながら,夜ソファに座って抱いていると、ネコはとなりの衣類の山に飛び移った。さらにその先の靴が並ぶ棚の上を歩く。後ろ足が力強く動くようになってきた。

朝起きると、おすわりをして人間を見上げ「きゃ」と小さく鳴くようになった。食べ終えると今度は人間に背を向けて座っている。どうやらこれはかまってほしいというサインのようだ。持ち上げてだっこすると満足そうな顔をする。こちらを向いて甘えないのはこのネコらしさなのだろう。

抱き上げたついでに腕を確認してみる。膿はたまっていないようだった。膿が流れ出ていた場所には、乾いた穴がポカンと口を開けていた。人間はその穴の先が白血球につながっているような気がして、なにかひとこと言ってやりたくなったが、急に恥ずかしくなって、ふっと息を吹きかけた。ネコは迷惑そうに身をよじった。

病院へ行くと、経過がいいので注射はやめて飲み薬に切り替えようということになった。通院の連続記録は10日間で途切れることになった。ネコと出会って17日間で12回お世話になった。

このあと、1週間分の薬をもらうため2回通院し、3回目に行った際に症状が全くみられないということで治療を終えることになった。FIPの病巣が完全に消えたかどうかを知るためには詳しい検査が必要だが、病巣があってもなくても症状が出ないかぎりは過ごし方は同じなので、検査はせずに様子を見守ることにした。

こうしてなんとか闘病生活を終えることができた。ネコを拾ってから36日目だった。 

お気持ちだけで十分だと思っていますが、サポートされたくないわけではありません。むしろされたいです。